『100万回生きたねこ』

 本棚を整理していましたら、以前、子供に買い与えた絵本が出てきました。『100万回生きたねこ』(佐野洋子 作・絵 昭和56年初版)という、興味深い題がついています。たしか、あの沢田研二が主演のミュージカルにまでなりましたので、ベストセラーの部類に入る絵本ではなかろうかと思います。

 100万年もしなないねこがいました。
 100万回もしんで、100万回も生きたのです。
 りっぱなとらねこでした。
 100万回人の人が、そのねこをかわいがり、100万人の人が、そのねこがしんだときなきました。
 ねこは、1回もなきませんでした。

という書き出しで始まり、あるときは王さまの、あるときは船のりの、あるときはサーカスの手品つかいの、あるときはどろぼうの、ひとりぼっちのおばあさんの、小さな女の子のねこという具合に、飼い主が変わりますが、ねこはみな嫌いでした。そして、だれのねこでもなかった野良ねこのときのことでした。自尊心の強いねこは、おべっかを使うメスねこには見向きもしませんでしたが、気高い一匹の白いねこに本気で恋をし、結ばれ、子供たちをたくさん育て、とても満足していました。ところが、白いねこは次第に年老いて、死んでしまいました。ねこは、そのとき初めて泣き、次の朝も夜も、また次の朝も夜も 万回も泣き、ついに動かなくなりました。そして、「ねこはもう、けっして生きかえりませんでした」で、この絵本は終わっています。

 ところで、童話の寓意を探ることは、ある意味で危険が伴います。そこのところをおそれつつ、あえて述べさせていただきます。

 ねこの飼い主がいろいろ出てきますが、人間たちは、自分の都合でしかねこをかわいがりません。しかも、ねこは飼い主によって自由を奪われ、非業の死を遂げなければならなかったり、ただ惰眠をむさぼるだけの生涯であったり、これまで100万回も生きても、一度も満ち足りた生き方ができないでいたというわけです。それが、体も心も自由の身になったとき、本当の恋を知り、家族の愛を知り、これまで味わったことのない幸せを満喫できた反面、それを失ったときの絶望も味わわなければならなかったわけです。つまり、自分の意識を完全燃焼させて、精一杯生きることこそ大切なんだということを、この作品で作者は言いたかったのだろうと思います。

 特に、私が注目したいのは、最後の、「ねこはもう、けっして生きかえりませんでした」の一行です。迷いの輪廻の世界から離れ、解脱できたということを類推させ、興味を覚えます。仏教的に言えば、大往生を遂げたということになりましょうか。

 私たちは、人それぞれに、生まれてから死ぬまでの間、いろいろな生き様を見せるものであります。その一生で、真の生きがいを見出し、悔いのない人生を送ることができる人は、そう多くいるとは思われません。

 落語にこんな小咄があります。

 「ソバはざるに限る。箸の先につっかけて、さらさらとたぐり、ソバの先に、ほんの一寸か二寸、ツユをつけてツルツルとたぐりこむ。そうしなければ、ソバの香りがわからねえ。ソバは、香りを味わうんだ。ツユの中でザブザブかき回して食ったら、そばが泣くよ」といつも言っていたソバ好きの男が病気になった。明日まではもつまいというので、見舞いにきた友人が、

 「何か思い残しか、言い残しはねえか」と訊くと、苦しい息の下から、

 「この世の思い出に、たった一度でいいから、ソバにツユをたっぷりつけて食いてえ。」

 この小咄、そう素直には笑えません。精一杯生きているつもりでも、背伸びし過ぎていると、思い残しを生むことになります。かと言って、何もせずでは、もちろん悔いが残りましょう。思い当たる節はありませんでしょうか。

 やはり、ねこのように、100万回くらい生きてみないと駄目ということでしょうか。(98/10)