永楽屋

 石川啄木の『悲しき玩具』という歌集に、

 みすぼらしき郷里の新聞ひろげつつ、
 誤植ひろへり。
 今朝のかなしみ。

 そして、その解説文には、

 送ってくれる郷里の『岩手日報』を見ての感慨であろう。朝日新聞の校正係をやっていた者のかなしい性として、無意識のうちに、新聞の誤植を拾っているのである。大望を抱いて郷関を出た者と、今のしがない勤めとの対照を、それはいやでもかなしく意識させるのである。(中央公論社『日本の詩歌』)
とあります。

 啄木は、二十七歳という若さで亡くなった天才詩人で、その愛好者も多いかと思いますが、今回は、啄木という人物ではなく、この短歌に詠われている、出版物と文化について、少々考えてみることにします。

 最近では、途上国からの輸入物が多くなり、それらの製品の説明書などを見ると、確かに、粗雑なものが多いようです。また、出版物とはいえないかも知れませんが、求人広告などで、誤字があったりすると、その会社のだいたいのレベルが知れるものです。といいつつ、本誌も、ささやかながら出版物に違いなく、実は、毎回恥をさらしていはしまいかと、ビクビクものなのであります。

 それはさておき、年号のはっきりしている、現存する世界最古の印刷物をご存じでしょうか。それは、法隆寺などに所蔵されている『百万塔陀羅尼経』だとされています。これは、称徳天皇の七六四年から七七〇年までに、恵美押勝の乱平定の謝恩に、四種の陀羅尼経(根本・相輪・自心印・六度)を百万枚木版で印刷し、高さ約二十センチの三重の木塔の塔芯をくりぬいて、一葉ずつ納め、十の大寺に十万基ずつ寄進したものです。幅約六センチ、長さ五十センチ弱の護符にすぎないとはいえ、百万枚も印刷されたという事実には、ただ驚かされます。

 その後、仏典を中心に、平安時代末期から木版の印刷物が多く作られ、桃山時代には、活版印刷の「切支丹版」と呼ばれる『イソップ物語』なども作られたといいます。しかし、日本の場合、ヨーロッパ流の活版印刷は漢字・和字の複雑さから普及せず、明治に入るまでは、もっぱら木版印刷によるものばかりでした。また、江戸時代以前の印刷物の多くは、一般人を対象にした商業的な出版物ではありません。民間の出版業者が本格的に動き出すのは、江戸時代に入ってからで、元禄時代(一六八八〜一七〇四)、京都を中心に輩出したといいます。当時、出版業者が、京都では百余軒、大坂では二十余軒、江戸では約四十軒が開業し、名古屋、金沢、仙台などにもあったということです。その中心は、しだいに江戸へと移っていったということですが、名古屋にもあったということなので、調べてみましたところ、これが、なかなかの本屋さんなのです。

 その名を「永楽屋」といいます。芭蕉も訪れた、名古屋では古い出版元であった「風月堂」の番頭の片野東四郎が独立して、安永四年(一七七五)に創業しています。そして、代々東四郎を名乗り、昭和二十六年に廃業するまで、七代続いたということです。その間、有名なところでは、国内はもとより海外にまで多大な影響を及ぼした、あの葛飾北斎の『北斎漫画』全十五編、『富嶽百景』第三編、そして極めつけは、本居宣長の『古事記伝』全四十四巻を出版しており、江戸や京都の出版元とも引けを取らず、郷土の誇るべき本屋さんでした。

 永楽屋の繁盛の秘訣は、木版彫り・印刷・製本といった手仕事を、当時少ない禄で生活に窮していた藩士の内職に出したことによるといいます。初代東四郎は、尾張藩の藩校の教授と近づき、藩校で使う漢書の出版を一手に引き受け、本来許されない藩士の内職でしたが、永楽屋の仕事だけは藩の仕事に近いからと許されたといいます。

 さて、その土地の出版物は、その土地の文化程度を表すといいます。永楽屋に負けないほどの出版社が、また出てきてほしいものですね。

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