ある訴訟事件から

 つい先頃、十月初めにアメリカから入ってきたニュースです。

 【ニューヨーク8日共同】六歳の息子が死亡したのはミニバンの後部ドアの欠陥が原因だとして、米国の大手自動車メーカー、クライスラーを相手にサウスカロライナ州に住む両親が起こしていた損害賠償請求訴訟で、同州連邦地裁陪審は八日、同社に対し、二億六千二百五十万ドル(約三百十八億円)を両親に支払うよう命じる評決を下した。(中略)

 訴えによると、一九九四年四月、同州ノースチャールストンで、セルジオ・ヒメネス君の一家が所有する八五年型ダッジ・キャラバンの後部座席に、別の車が運転席側の後部に衝突した。

 この弾みで車は回転しながら転倒したが、この際、荷物搬入用の後部ドアが開いたため、セルジオ君は外に投げ出され、頭の骨を折って死亡したという。

 クライスラー側は「法外であり、評決を覆す自信がある」としている。

 さて、このような訴訟について、いかが思われますでしょうか。アメリカは、訴訟社会と聞いておりましたが、その賠償金額があまりに桁違なことに、まず驚かされます。それで、これまでに、メーカーの責任を問われた類似の事件で、どれほどの賠償金が支払われたことがあるのか調べてみました。

 中日新聞のデータベースに、一九九三年、米ゼネラル・モーターズ(GM)が製造した大型ピックアップ・トラックによる死亡事故で、事故死した少年の両親に懲罰的損害賠償を含め一億五百二十万ドル(約百三十億円)を支払うよう求める評決が下ったという記事がありました。その後控訴審があったかどうかは分かりませんが、アメリカにおいては、人命に関わるほどの過失があった場合、メーカーはこれくらい支払うのが常識化しているのかも知れません。個人の場合でも、運転中に携帯電話を取ろうとして、死亡事故を起こした十八歳の女性に対し、総額約七百万ドル(約七億九千万円)の損害賠償を支払うよう命じる判例が今年五月にありました。ともかく、アメリカという国は、悪と思われることに対しては、徹底して責任追及していこうという風潮があるように思われます。

 交通事故訴訟もそうですが、最近では、たばこ訴訟も相当なもののようです。そこで、たばこ会社側は今年六月、増大するたばこ訴訟を抑制するため、四十州の州政府と二十五年間で三千六百八十五億ドルを支払う和解案を結び、連邦議会の承認を待っているとか。そこで思い出すのが、一九一九年制定されたあの禁酒法です。そのうち、この勢いでいきますと、禁煙法なるものができそうです。そうなりますと、密造、密売が横行し、カポネ再来ということに、なんてことを危惧するのは、私だけでしょうか。

 よその国のことなので、うっちゃっておけばよいことなのかも知れませんが、気がかりなのは、少しでも有能な弁護士を立てて、より多くの賠償金を取ってやろうという姿勢も無論のこと、悪に対する考え方についてです。悪の基準は、決して不変なものではないし、必要悪も、確かにあると思うからです。しかも、個人の内面にも善と悪は同居しているわけですから、社会においてもまたしかりです。売春防止法ができれば、援助交際なるゆゆしき事態が新たに出てくる、これが世の常であります。

 この悪をどうとらえるかは、宗教における重要なテーマで、それぞれの宗教によって違います。例の禁酒法の発端は、福音主義的プロテスタンティズムに依拠する宗教的教化運動によるものといわれています。高く掲げた理想ではありましたが、皮肉にも、法の尊厳を傷つけただけという結果に終わったわけです。

 つまり、悪との折り合い、ここが肝心のようです。自分も悪なる存在であるから、相手の悪には寛容であれという基本姿勢がないと、違ったところで弊害を生むことになります。 (97/11)