同じ蓮華(はす)の台(うてな)で

 「一蓮托生」という言葉は、普通には行動や運命をともにするという意味で使い、しかも、どちらかといえばよくないこと、悪事を働いたときなどに、死なばもろともの意で、あるいは、最近話題の『失楽園』ではありませんが、来世において恋の成就を期する意に用いられているようです。しかし、元々は仏教用語です。もうすぐ、お盆がやってきますが、お寺では盆施餓鬼会が勤まり、導師が、亡くなられたご先祖の方々の戒名を読み上げ、最後に「一蓮托生」の言葉を付け加えることがあります。それは、極楽に往生して、ともに同一の蓮華に身を託せるようにという願いをこめて、唱えるものであります。

 そこでです。この「一蓮托生」にこめられた意味を知れば、どんな罪深いものでも、同じ極楽の蓮華の台に上れるのであり、もとより地獄行きは御免被りたいわけですから、だれもしが、この言葉によってどんなに心救われるか、計り知れないものがあります。ところがです。いざ翻って、ならば、神戸の連続児童殺傷事件を起こし逮捕された少年、彼とも、いずれは浄土で会うことになるのだろうか。もっと卑近な話、もしかしてあのいやな上司とも一緒なのだろうか。そうなってくると「ちょっと待てよ」、という人がでてくるかも知れません。

 芥川龍之介の短編に『蜘蛛の糸』というのがあります。

 地獄に堕ちたカンダタは、悪事の限りを尽くしてきた大悪党でしたが、たった一つだけ、蜘蛛を助けるというよい行いをしたことがありました。それで、お釈迦様(本当は阿弥陀様であるべきでしょうが)は、できれば極楽へ救ってやろうとお考えになり、極楽の蜘蛛の糸を、はるか下にある地獄の底へ、まっすぐに下ろされたのです。

 さまざまな地獄の責め苦に疲れはてて、血の池で、死にかかった蛙のようになっていたカンダタですが、その糸を見つけるや、手を拍って喜びました。これをのぼっていけば、きっと、地獄から抜け出せるに違いないと思ったからです。糸をたぐり、どんどんとのぼり下を見下ろすと、さっきまでいた血の池は、もう闇の底にかくれています。この分でいけば、地獄から抜け出すのも、存外わけないかも知れません。「しめた。しめた」とほくそ笑み、ふと見ると、蜘蛛の糸の下から、数限りない罪人たちが、後から後から蟻の行列のようにのぼってくるではありませんか。カンダタは、驚いたのなんの、自分一人でも断れそうなこの細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪えられようか。

 カンダタは大きな声で喚きました。「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。下りろ」と。その時です。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、カンダタのぶら下がっているところから、ぷつりと音を立てて断れたのでした。

 さて、このカンダタを笑える人が、はたして何人いるでありましょうか。また、ユダヤには、こんな話があります。

 神様が、パン屋の主人に「願い事を一つだけ叶えてやろう。ただし、向かいの肉屋の主人には、お前が願い出たものを、倍にして与えるつもりだ。さあ、なんなと申し出よ」と、おっしゃったそうです。パン屋の主人は、あれこれ思案した末、申し出ました。「神様、わたしの片目を潰してください!」

 いかがでしょうか。これも、お腹を抱えて笑えるジョークではありません。たいていの人は、自分は、パーフェクトな善人ではないにしても、警察にご厄介になったことはないし、毎年赤い羽根募金もしているし、ボランティア活動にも時には参加している。おそらく、世間並み、お浄土くらいはいけるだろう。だが待てよ。自分が極楽へいけるなら、あいつもいけるのかしらん。しかし、それは許せない。自分は犬畜生に甘んじてでも、あいつにだけは、地獄にいってもらわねば―。

 ああ、罪深き衆生であります。そこで結論、「一蓮托生」とは、自分の愚かさを知ることである。

(97/08)