玉虫厨子(下)

 下の写真は、玉虫厨子の左側面の図です。少し見づらいかと思いますが、上部には、上着を脱いで木の枝にかけている姿、中央部には、崖から飛び降りている姿、下部には、親子の虎に食べられている姿が描かれているのが、お判りいただけますでしょうか。



 釈尊が悟りを開かれて仏となられたのは、因果応報の習いどおり、前世においても、きっと、善い行いがあったからに違いないということで、紀元前三世紀頃、釈尊の前世の善行を集めた物語ができました。それは『ジャータカ』と呼ばれ、五四七の説話からなり、『千夜一夜物語』『イソップ物語』『グリム童話』などに影響を与え、日本の『今昔物語集』にも類話があるなど、世界文学史の上からもとても重要なものとされています。

 今ここで問題としようとしている「捨身飼虎」図は、その中の一話から採られたもので、釈尊の前生である薩捶王子が、飢えた親子の虎に我が身を与えるべく、崖の上から虚空に身を翻らせて墜死し、餓虎の餌食となる光景が、同一画面の中で、三場景連続であらわされています。

 そして、右側面にも、この『ジャータカ』から採られた「施身聞偈」図が描かれています。絵があまり鮮明ではありませんので、写真は割愛させていただきますが、ここでは釈尊は、前生において婆羅門(僧侶階級)の修行者として雪山(ヒマラヤ)に住み、羅刹(鬼)が「諸行無常、是生滅法」と称えるのを聞き、この句の後半が必ずあるはずと、その羅刹に聞かせてくれるよう頼みます。すると、「自分は飢えているから、食わせてくれたら教えてやろう」というので、約束をし、後半の「生滅滅已、寂滅為楽」を教えてもらいます。そして、その句の意味を深く味わい、岩にその句を書き込み、約束どおり、我が身を与えようと崖の上から身を投じると、そのとたん、羅刹は帝釈天の姿となり、空中で修行者を抱きとめて救ったという物語が、これも、同一画面の中に描きだされています。

 さて、この二つの図と、宮殿背面に、釈尊の説法の場である「霊鷲山」が描かれていることからして、盗難に遭ったという御本尊は、おそらく釈迦像であったとして間違いないと思われます。さらに興味深いのは、この厨子をモデルにして、山田寺の金堂が建てられたのではないかという説があるということです。

 この山田寺というのは、右大臣蘇我倉山田石川麻呂の発願によって創建されたのですが、造営半ばにして石川麻呂は無実の罪に問われ、一族とともにその金堂にこもり、無抵抗のまま果てています。これは、聖徳太子の子の山背大兄王が、蘇我氏との皇位継承問題が起こったときに、「一身のために百姓万民を労するに忍びず」として斑鳩寺にこもり、妻子一族が自殺した事件と、極めてよく似ています。しかも、聖徳太子の撰述といわれる『勝鬘経義疏』の注釈に「捨命と捨身とは皆是れ死なり。但し意を建つること異なるのみ。若し身を餓虎に投ずるが如きは、本捨身に在り、若し義士の危うきを見て命を授すは、意は捨命に在り」との記述があるということは、この厨子が、聖徳太子に非常に関わりの深いものであるとともに、石川麻呂・山背大兄王一族の悲しいまでの死は、その「捨身」の思想の影響を強く受けたものであることに違いはないでしょう。

 玉虫厨子が、だれによって、何のために造られたか、本当のところは分からないといわれています。しかし、日本の飛鳥の時代の歴史を彩るいくつかの事件が、この厨子をもとに展開されたのだと思うと、とても感慨深いものがあります。

(97/05)