玉虫厨子(上)

 「玉虫厨子」という、不思議な工芸品の存在を知ったのは、確か、中学校の社会科の授業であったかと記憶しています。当時は、玉虫の羽根が装飾に使われていたということだけに、その関心が向いておりましたが、ここで改めて調べてみますと、とても興味深いものがあります。そこで、これから数回に分けてご紹介させていただこうと思っています。まずその概要は、『ブリタニカ』が、いちばん簡潔に要領よく記載されていましたので、次に紹介いたします。

 法隆寺に伝わる飛鳥時代の厨子。高さ二.三三b。国宝。宮殿形の厨子とそれを載せる須弥座の二部分から成る。木製黒漆塗りで、要所は金銅透かし彫の金具で飾られ、ことに宮殿形には透かし金具の下に玉虫の羽根を伏せてあることからこの名がつけられた。宮殿形は正面と左右に両開きの扉をつけ、二天王二菩薩像を描き、内部には金銅押出像を張る。建築の細部にいたるまで、法隆寺金堂などにみられる飛鳥建築の様式をそなえている。須弥座の正面には舎利供養、背面に須弥山、右側に『捨身飼虎図』、左側に『施身聞偈図』と、仏典に基づく画題が彩漆で描かれている。内部の仏像は失われているが、飛鳥時代の建築、絵画、工芸史上貴重な遺品。

 さて、厨子というわけですから、仏像を安置する仏具には違いないのですが、いつ、どこで、いかなる目的で作られたか、よくは分かっていないようです。現在は、法隆寺にあり、その宮殿内には、水瓶を持った白鳳時代の観音像が安置されていますが、鎌倉時代の文献によると、これは推古天皇の御厨子で、阿弥陀仏か釈迦仏の三尊像が安置されていたが、盗人にとられ、その盗人を誅する誓願のもと、白檀の四天王像を造り、代わりに安置したというのです。

 どこで作られたか、ということに関しては、朝鮮、あるいは中国、いや、国産であるとする説があります。ただ、最近の研究では、ヒノキが使われているという用材の側面から、国産説が有力のようです。なんでも、『日本書紀』の素戔嗚尊の伝承によると、「日本は島国だから、舟がなければ困るだろうと、髭を抜き散らしてスギに、胸毛はヒノキに、尻毛はマキに、眉毛はクスノキとなして、尊は、それぞれの用途を示して、ヒノキは宮殿に、スギとクスノキは舟に、マキは棺の材に使え」と教えたというのです。そして、日本の古代における用材は、すべてこの記述と一致するというのです。また、飛鳥・白鳳時代の仏像に関しても、像身や光背などの彫刻部分はクスノキ、天蓋や台座などの建築部分にはヒノキが使われていて、ただ一つの例外は、広隆寺のあの有名な宝冠弥勒菩薩像で、その用材はアカマツが使われているということです。

 この用材の識別は、ごく小さい毛筋ほどの木片を集めて、顕微鏡でのぞきながら、細胞の特徴を一つずつ拾い集め、それをつなぎ合わせて樹種を判定するのだそうです。つまり、近年の科学の進歩が、広隆寺の宝冠弥勒の朝鮮渡来説を、決定的なものとしたわけです。しかも、韓国に、材質は金銅ではあるが、そっくりな弥勒菩薩があるというので、先年、私も、韓国の国立中央博物館を見学したときに、この目で確かめさせていただきましたが、本当によく似ていました。

 ということは、この用材の研究によって、玉虫厨子の国産説を確信してもよいということになれば、右側面に描かれた『捨身飼虎図』、左側の『施身聞偈図』の持つ意味が、がぜん面白くなってきます。聖徳太子が摂政をしていたときの女帝、推古天皇の御厨子であったことなどをつなげていきますと、この厨子の仏教的、歴史的意味が、何となく見えてくるような気がします。次回をお楽しみに……。

(97/04)