恩を知る

 つい先日のことです。犬を連れて、夕方の散歩に出ようと門を出たところ、道路の真ん中に何やら落ちているのが目に入りました。夕暮れの薄暗さでは、それが何であるかはっきりとは分かりませんでしたが、どうもその大きさ、形からして、財布のようであります。

 いつもとは違う方向に引っ張られ、≠「やいやをしている犬をせかせて近づいてみると、はたして、財布であります。しかも、高級そうなりっぱなもののようです。手に取ってみると、何やらいっぱい入っています。で、予測どおりのものであったことはいいのですが、こういうものを拾うのは、何かしら、後ろめたさがあるものであります。しかも、自転車で、のぞき込むようにして見ていく人がいたりして、変に、どぎまぎするんですね、これが。財布を拾うのは、これで二回目ですが、あまり気持ちのいいものではありません。

 それで、家に帰って、中を調べたところ、高額ではありませんが現金、クレジットカード類三枚、他に、今流行りの顔写真をシールにしたもの(プリクラというのだそうです)などが入っていて、持ち主は若い女性のもののようです。カード会社に聞けば持ち主が分かると思い、直ぐに電話しましたところ、現金が入っている場合は、警察に届けてほしいとのことでした。午後六時を回っていましたが、警察署に行くと、当直だというお巡りさんが、親切に対応をしてくださいました。

 さて、調書が終わって、お礼の権利云々という話になって、若い人からお礼をもらう気にはなりませんでしたので、権利放棄の欄に署名をして帰ってきました。それから数時間後、警察署から、持ち主が引き取りに来たという電話がかかってきました。それで、電話口に出た持ち主に、お礼は無用である旨を伝え、電話を切ったのですが、その後、それでよかったのか、また、どう言えば良かったのか、いろいろ考えてみたのであります。

 ≠ィ礼というのは、『広辞苑』よれば、「恩恵や贈物を受けたのに対して、感謝の意をあらわすこと」とあります。そして、仏教論書の『人施設論』の中に、「世間において得がたい二人とはだれか。一人は先に恩を施す人である。他は恩を知り恩を感ずる人である」とあり、つまり、恩は、先ずは施すこと(施恩)、そして、施されたことを知ること(知恩)だというのです。この知恩は、浄土宗鎮西派総本山の知恩院の寺院名称にもなっており、奥深い意味がありそうです。

 普通にわれわれが考えるところの恩は、ギブ‐アンド‐テーク(give and take)、いわば、もちつもたれつ、といった関係でとらえがちですが、ここでの「恩を知る人」という古代インドの原語(パーリー語)は、カタンニュー、直訳すれば「なされたことを知る者」ということで、なされたことに対して、お礼をしなさいということではないようです。漢字の恩という字の構成も、原因を心にとどめる、すなわち、恩とは、何がなされ、今日の状態の原因は何であるかを、心に深く考えることだというのです。

 つまり、今の自分は、いろいろな恩恵を受けて生かされているのであって、そのことに気づき、感じ、知り、深く考えなさいというのです。現代には、若干そぐわない向きもありますが、経典には、父母の恩・国王の恩・衆生の恩・三宝の恩の四恩が説かれています。そして、その恩を知れば、今度は、自分が、喜んで恩を施す人になれるのだというのです。私どもは、何か人に親切にしてあげたときなど、どうしても、恩着せがましくなりがちですが、この施恩と知恩の心を思い起こして、恩を売るようなことは慎みたいものです。

 もし、今度また財布を拾うようなことがあったときに、「財布をお届けしたことを、あなたは感謝してくださいますか? だったら、今度は、あなたが、だれかに親切にしてあげてください。それが、私に対するお礼だと思ってください」と、きちっと言える人間になれたらいいのですが……。

(97/02)