公平な分配

 明けまして、おめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。本年も何卒よろしくお願いいたします。

 ところで、お正月は、おめでたいのはいいのですが、お年玉のことで頭の痛いとおっしゃる方も多いのではないでしょうか。親類縁者が多い場合、その金額が伸すというのもむろんのことですが、あげる相手によって、その金額をどうするかで、結構神経を遣うわけであります。

 たとえば、二人の兄弟に、合わせて一万円をお年玉としてあげると仮定します。その場合、きっかり半分ということで、五千円ずつにするのか、それとも、年齢を加味して、兄と弟では差をつけるのか、ということになります。差をつける場合でも、兄を多くする場合と、逆に、少なくという場合も考えられます。それは、いろいろな状況によって、一概には決められないとは思いますが、現実には、「公平に…」と考えて、五千円ずつとする場合が多いのかもしれません。

 ただ、この『公平』、語義的には「かたよらず、えこひいきのないこと」となりますが、先月紹介させていただいた『ナスレッティン・ホジャ物語』に、実に興味深い話が載っていました。『神様のすることは…』と題して、次のようにあります。

 ある日、四人の子供たちがホジャに頼みました。

 「クルミが一袋あるの。公平に分けるのを手伝ってもらえますか、ホジャ?」

 「いいとも。神様の分け方か、それとも人間の分け方か、どっちがいいかね?」

 「神様の方がいいよ」

 ホジャは袋からクルミを取り出して、ある子には両手で一杯、ある子には片手で一杯、次の子には二つ、最後の子には一つもあげませんでした。

 「ホジャ、これは何なのさ」と、子供たちは不満です。

 「そう、これが神様の仕事さ。ある者は恵まれ、ある者は不運なものよ。おまえたちが人間の分け方を望めば、みんな同じだったのに…」

 さて、いかがでしょう。示唆に富んだ、お話だとは思われませんか。

 日本は太平洋戦争以後、生活全体が、意識も大きく変わって、特に、公平・平等ということが重視されるようになりました。その結果、個々の自由や権利が認められるようになって、一般個々の人たちの公平感や平等感は、戦前に比べれば、大きく改善されたといえます。そして、多くの人たちには、「公平」イコール「均等」と意識されていて、何らそのことに疑問を感じておられないようです。ところが、すべてのことにこれを当てはめていこうとすると、まずいことも起こってきます。

 たとえば、詳細については知りませんが、アメリカで、男女の権利の均等化を図った結果、女性にも徴兵義務が生じたということで、これなぞ、いかがなものでしょう。女性が兵士に向いているとは思えませんし、死と隣り合わせにいる軍隊で、男女の兵士が共に行動をとるということは、必然的に、緊張の捌け口を求めることになり、よい結果は出てこないでしょう。実際、湾岸戦争のとき問題になっていました。

 また、この頃の日本では、親子関係や師弟関係にまで、この均等原理を当てはめようとしているように思えます。親が子を、教師が児童・生徒を教育する上では、どうしても上下関係がないと、健全な指導になりません。ときに、子供が不平をもらし、「あっ、お母さんだけずるい!」といわれても、変に迎合する必要はないし、生徒が制服なら、先生にも制服を、なんていうどこかの教育委員会もおかしなことだと思います。

 男女差・能力差などは、現実にはあり、そこを「公平に」となると、単に均等化ではだめで、それこそ「神様の仕事」が必要になってきます。それは、仏教的に見れば、仏様の尺度でものを考えるということです。私どもは、時と場合に応じて、公平な尺度で物事を測れる、仏様のメジャーもひとつポケットに持っていたいものですね。(97/1)