寅さんに思う

 俳優、渥美清さんが、八月四日に亡くなりました。そして、八日に、国民栄誉賞が贈られることになったと、翌日の新聞は報じておりました。また、同九日付のフランス有力紙ルモンドが「下町の英雄、寅さん逝く」と題した渥美清さんの評伝を、日本人俳優としては異例の扱いで掲載といいます。カバン一つで各地を気ままに旅する寅さんは、日本人のだれもがあこがれる「小さな自由」を映画の中で具現していると述べ、渥美さんを「劇中の人物になりきったまれな役者」と高く評価したとのことです。

 私は、あまり映画は見る方ではありませんが、寅さんシリーズの何作かは見ています。おそらく、多くの皆さまも同様ではないでしょうか。つまり、それほどわれわれ日本人には、寅さんは身近な人であったということで、それが、国民栄誉賞に、ということになったのでしょう。

 渥美さんが亡くなってみて、思ったことなのですが、主演映画が長寿シリーズとしてギネスブックにも載ったほどの俳優なのに、私どもは、渥美さん自身のことについて、あまり知っておりません。というのも、生前中、自身の家族構成なども、一切明かさず、有名人がよく出す自伝も、出版社や新聞社が日参しても、頑なに断り続けたといいます。われわれが、渥美さんの死を知ったのも、三日後のことであったというのも、「知らせるな」という、ご本人の遺志によるものだそうです。

 映画、芝居、小説にしても、現実の世界とは違います。物事をデフォルメ(誇張)した、フィクション(虚構)の世界であります。それを演じるのが俳優、役者でますが、それを見るわれわれは、とかく、現実と虚構との区別がつかなくなりがちです。例えば、映画の主人公の演者、イコール、ヒーロー(英雄)という具合にです。このことは、演じる側にもいえることで、私生活とドラマの世界との狭間で、自分自身を見失っている俳優さんの、どれほど多いことか。俳優の離婚率が高いのは、このあたりも原因があるものと思います。

 ですから、ルモンド紙の「劇中の人物になりきったまれな役者」という評価は、必ずしも適切な評価とはなっていないのではないかと思えるのです。渥美さん自身は、むしろ、自分が、劇中の人物にはなりきれないことを、いちばんよく知っていたのではないでしょうか。だからこそ、自分の私生活を、一切明かそうとされなかったんだと思います。

 しかし、渥美さん自身は、ある時の談話で、「自分と寅次郎の区別がつかない時期もあった」ともらされています。それは、取りも直さず、常に、現実の自分と虚構の中の寅次郎との対峙があったからこその発言と思われます。そしてこのことは、私どもが、それぞれの自分の人生を演ずるという上で、とても重要な示唆を与えてくれるような気がするのです。

 人間、ある程度分別がつくようになりますと、理想の生き方というものが見えてくるものです。ところが、それはあくまで理想でありますから、かなわないことの方がむしろ普通で、虚構の世界と呼んでもよいものです。そこで、多くの人は、理想とは程遠いところで、自分が主人公のドラマを演じてはいるものの、どこかに妥協点を見つけて、程々のところで納得をしているというのが現実ではないでしょうか。

 渥美さんの場合、現実と虚構の確たる見極めが、われわれには「劇中の人物になりきったまれな役者」と目に映るのだと思います。その努力たるや、まさに「男はつらいよ」の心境であったに違いありません。

(96/09)