如意と不如意

 「呆けたくない」

 「楽に死にたい」

 「ポックリ逝きたい」

 ある程度お年を召した方から、この頃よくお聞きする言葉です。人間として、共通する願望であるということもありましょうが、日本は、かつて経験したことのない高齢化社会を目の当たりにして、個人はもちろん、いろいろな方面でも戸惑いがあるようです。

 つい最近、京都府のある病院長が、何人かの末期ガン患者に対して、筋弛緩剤を投与して安楽死させたとして、殺人容疑事件に発展いたしました。本人や家族の了解を得ていなかったこと、主治医との連絡を取っていなかったことなど、院長の独断で行われたところに問題があるとみられています。今後どのような展開になるのかは分かりませんが、これも戸惑いの極端な事例ということができましょう。それはそれとして、いずれは誰もが迎えるであろう老いや死に対して、その心構えをしておくことは、とても大事なことです。

 「美しく老いたい」

 「美しい死に方をしたい」

 多くの方が、このように考えていらっしゃいます。しかし、如何せん、本来老いは醜く、死はおぞましいものであります。それを美しくあれと思うこと自体に無理があることを、これまた、多くの人は気づいておりません。逃れることのできないといわれる「四苦」、すなわち、「生老病死」すべても、当人にとっては苦しみの元であり、美しいものとは縁遠いものです。しかも、生老病死は、人間の力ではどうにもならないもの(不如意)で、それを、自分の思い通り(如意)にしようとし、それがかなわぬ故に、その苦しみをかえって増長させる結果になってしまっています。

 とはいえ、「いい老い方」をされている人や「りっぱな死に方」をされる人も、確かにいます。

 ある知人で、老夫婦だけで生活されている方なのですが、奥様が痴呆症になられ、もう数年になります。身の回りのことはもちろん、用足しにも介護がいるような状態なのですが、ご主人が、私にこんな話をして下さいました。

 「いつも連れて歩いています。二人でね、よく旅行にも行くんですよ。和式のトイレは、便器の中に足を入れてしまうんで、一緒に入るんです。食事も、私が食べさせています。でもね、家内は、いつも手を合わせてね、『ありがとう』『ありがとう』と、日に、何十遍、何百遍といってくれるんですよ。主治医の先生が、病状の進行が遅いといって、不思議がってみえるんですよ」と。

 お二人は、正に自然体であります。格好良く生きようだとか、ポックリ逝きたいだとか、そんな気色は微塵もありません。あるがままを、感謝しつつ生きておられます。

 釈尊が、悟りを開かれて後、五人の比丘に初めて説法されたのは、四つの真実(四諦)についてであったといいます。病気でたとえれば、まず、病状を知ること、その病因を知ること、そして、回復すべき健康状態を把握すること、それで、適切な薬を施すということです。つまり、以上の四つの真実を見極め明らかにすること、それが、諦めることだというのです。現在では、「諦める」の意味は、もうだめだと「匙を投げる」のような意味に使うことが多いようですが、本来の意味を考えると、仏教での、本当の生き方というものが見えてくるような気がいたします。

 お二人の生き方を見ていて、私たちは、生老病死といった、自分の意思ではどうにもならない、世間の不如意なものに対しては、何とかしてどうにかしようとジタバタするのではなく、ことの真実を見極めて、諦めることこそ大事なのではないか……、そう思えるのです。

 無論、諦めるということは、安楽死を選ぶことであったり、気を利かして安楽死させることでは、毛頭ありません。あるターミナル・ケアに造詣の深い方がおっしゃっておられました。「寝たきりになりたくないなんて思っちゃいけませんよ。寝たきりに、どうどうとなればいいですよ」と。

(96/07)