悔いること赦すこと

 子どもがいたずらをしたときなどに、「あやまりなさい。ごめんなさいは?」といって叱っている親御さんをよく見かけます。その時の子どもの反応はというと、素直に「ごめんなさい」という子、わあわあ泣きながら謝る子、泣きたいのだけれど涙を目にいっぱいためて、それでも「ごめんなさい」がいえない子、最後まで我を張って、どこまでも謝ろうとしない子などと、状況にもよりましょうが、さまざまであります。

 これと似たようなことは、大人の世界でもあります。オウムの事件の裁判が、順次それぞれに行われておりますが、容疑者の反応は、これまた、さまざまであります。自分の罪を認め、どんな償いをも辞さないとするもの、一応は過ちを犯したことに対して謝罪はするものの、自分の意思ではなかったといって、責任を回避しようとするもの、麻原教祖本人に至っては、謝罪するどころか、公判中に居眠りをしていたとか。

 子どものいたずら程度のことであれば、謝れば、また、謝らなくとも、泣くという行為によって、大概の親は、その罪を償ったものとし、赦してあげる場合が多いようです。だからでしょうか、謝る方も、謝られる方も、大人になっても、この癖が抜けきらない人は多いようです。うるうると流す、女性の一筋の涙に、ころりとだまされた御仁は、結構いらっしゃるのではないでしょうか。

 これは冗談としても、謝罪すれば、いや、謝罪のポーズをすれば、どちらもが安心してしまうというところがあるようです。しかし、罪の意識というものは、その人の人間性を考える上で、とても重要なことであり、われわれは、真剣に考える機会を持つべきであります。

 そこで、少しここで考えてみましょう。先ず、罪というものを考える場合、自分の犯したものであれば、「悔いる」ということ、他人の犯したものであれば、「裁く」ということが問題となります。「悔いる」ことは、仏教では「懺悔(サンゲ)」、キリスト教でも「懺悔(ザンゲ)」といい、宗教においては、とても重要視しています。それは、懺悔こそが、自己内省の基であり、それが取りも直さず信仰への出発点となるからです。

 懺悔の意を述べる文を懺悔文といい、もっとも有名なものは『略懺悔』です。ご存じの方も多いかと思いますが、「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身語意之所生、一切我今皆懺悔」で、読み下すと、「われ昔より造れる諸の悪業は、皆無始の貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろかさ)による。身(体)と語(口)と意(心)より生ずるところなり。一切をわれ今皆懺悔したてまつる」ということになります。

 ただ、この懺悔は、時とともに、希薄化・惰性化しやすく、あるいは、ひとたび懺悔すれば、もうそれで赦されたのだと錯覚してしまうという盲点のあることを、先にも述べました。中国浄土教の祖師である善導大師は、そこのところを凝視し、「懺悔に三品あり、上中下なり」とおっしゃっています。

 すなわち、「上品(上の位)の懺悔とは、身の毛孔の中から血が流れ、眼の中から血が出るもののことであり、中品(中の位)の懺悔とは、身体の全体の毛孔から熱い汗が出、眼の中から血が流れるもののことであり、下品(下の位)の懺悔とは、身体の全てにわたって熱くなり、眼の中より涙の出るもののことである」、というのです。

 さて、いかがでしょうか。私どもは、懺悔というものを、あまりに軽く考え過ぎているようです。実際、自分自身を見つめたとき、下品にすら至っていない懺悔でもって、もう赦されたのだと、居直っている自分を発見することでしょう。懺悔ということは、まさに血の汗と涙を振り絞ってするものであることを認識せねばなりません。そして、そうすることで、他人の犯した罪に対しては、「裁く」というのではなく、「赦す」ことができるようになるのだと思います。寛容の心は、懺悔の心があってのものでありましょう。

(96/06)