葡萄の種子と青い葡萄の酒

 こんな話があります。

 昔、アラブのある国で、王様が急死をし、若い王子が即位することになりました。王子は王となり、立派な国にしようと、国中の学者に古今東西の国々の興亡盛衰の歴史を調べさせることにしました。調査は、十年に及びました。そして、その調査報告は、実に、象の背に三頭分にもなりました。あまりの量の多さに、王は報告書の要約を命じました。学者たちは、また十年の歳月をかけて、象の背一頭分の報告書にまとめ、王に提出しました。王は、さらにその要約を命じました。学者たちは、さらに十年を費やし、ついに一枚の紙にまとめ、王に提出をしました。そこにはたった三行、

  人は生まれ

  人は苦しみ

  人は死ぬ

とだけありました。

 それを見た王は深くうなずき、感謝したといいます。

 さて、いかがでしょうか。なかなか示唆に富んだ話だとは思いませんか。私は、次の二点について考えさせられました。

 一つは、最初の十年の時点で、三行にまとめて提出していたとしたら、王ははたして、どのように言われただろうか、ということです。おそらく、「余を愚弄するな!」と、昔のこと故、学者の首は飛んでいたに違いありません。ここでは、若かった王にとって、調査に要した三十年間という歳月こそ、重要であったと考えられます。三行にこめられた意味を知る上で、必要不可欠な期間であったと思われるからです。

 今一つは、その三行に示された結論が、仏教の根本教説である四諦に通ずるものであり、ここでは説明を省きますが、「四苦八苦」の概念と同じものであるということに興味を覚えます。つまり、洋の東西を問わず、時代を超えて、「人生は元来苦である」との認識こそが大切であると、教えてくれているような気がします。

 小説家の高見順が、

  葡萄に種子があるように

  私の胸に悲しみがある

  青い葡萄が酒になるように

  私の胸の悲しみは喜びになれ

という言葉を残しています。

 氏は、労働運動に参加して検挙されて転向を強いられ、しかも、留置中妻に去られるという二重苦を負った人であります。そのことを思うと、この言葉には重みが感じられます。

 ところが、最近のブドウには種子がありません。ブドウに種子があることを知らない若い世代の人たちにとって、いや、種子のないブドウに慣れてしまったわれわれには、氏がこめたこの言葉の意味を、十分に理解できなくなっているのかも知れません。

 世の中が、こう便利になって、煩わしいと思われることは、望むと望まないとに関わらず、どんどん排除されてきています。野菜は、きれいにパック詰めにされて店頭に並び、電話一本で、《ラクラクお引っ越し》の時代です。ある程度のお金さえあれば、「人生は苦である」との認識が難しくなってきています。

 最大の苦である「死」ですら、最近ではほとんどが病院で迎え、葬儀も葬儀社が煩わしいことは全て請け負い、「死」が持つところの「おぞましさ」「けがらわしさ」といったものが覆い隠され、「死」を見えなくしてしまっています。しかし、「死」は、誰にも間違いなく来るものであり、「苦」そのものも、なくなったのではなく、見えにくくなっているにすぎません。だから、いきなり自分のもとへ来るやもしれず、来たときには、もう、ただ狼狽えるだけということになります。やはり、「病める貝殻にのみ真珠は宿る」(エンドレェフ)を心すべきでしょう。

(96/04)