「もんじゅ」の知恵は生かせるか

 去る1月13日、動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の総務部次長(49才)が、先の高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事件に関わる問題で、「重大な責任を感じる」との遺書を残し自殺をされました。

 このような、重大事件の責任を死によって償うという行為は、悲しいことなのですが、日本においては、そう稀なことではありません。私どもの記憶に残っているものとして、平成2年12月、水俣病問題を担当する環境庁の企画調整局長が、被害者と国側との和解調整に苦慮し自殺、平成元年4月、リクルート疑惑をめぐる政治不信の高まりの中で辞意表明に追い込まれた竹下登元首相の秘書が自殺、昭和60年8月、グリコ・森永事件の犯人取り逃がしの責任を負い、滋賀県警の本部長が辞意表明直後に自殺、昭和51年8月、田中角栄元首相の秘書兼運転手がロッキード事件捜査を苦に自殺などというように、枚挙にいとまがないほどです。

 諸外国での事情はよく分かりませんが、日本では、令の刑罰の一つに「自尽」と呼ばれるものがあり、平安時代末期から室町時代にいたる間に、「自尽」の方法として「切腹」が行われるようになり、江戸時代にいたってその形式が確立したといいます。江戸時代、武士の死刑にはほかに「斬」があったが、切腹は斬首のはずかしめから救うために行われたとのことです。

 ということは、おそらく、この刑法の伝統からくるものと思われます。しかも、事件に関わる当事者ではなく、その配下にあって、責任を感じやすい人がいつも犠牲になっていることが、何ともやり切れなく、当初、誰もが事件当事者に強い憤りを覚えるのですが、それが不思議なことに、いつか知らぬ間に、事件は解決したことになっているのです。しかも、本質的には、何ら解決していないという、日本の悪しき風土というべきものであります。

 意味合いは多少異なりますが、今回のことで、新聞の記事を探していて、気になることに思い当たりました。平成6年の暮れ愛知県下で、いじめを苦に、中学生が自殺した事件は、まだ記憶に新しいところであります。そしてそれ以降、各地で頻繁に引き続いて起こっています。対策は立てられているのでしょうが、いっこうに収まらないのはなぜでしょう。これには、どうも伏線があったように思えるのです。

 級友、教師までもが加わっての「葬式ごっこ」等のいじめにあい自殺した(昭和61年2月)中学生の両親が起こした損害賠償訴訟で、東京地裁は「学校側などには自殺は予見できなかった」との判決を下したのに関し、平成3年3月28日付の朝日新聞社説が、次のようにコメントしています。

 事件が各地の学校や先生、親たちに与えた衝撃は、いじめが表面上沈静化したといわれる今も強烈に残っている。判決は、そうした鹿川君の「死」の社会的背景を軽視している……。

 つまり、東京地裁が、いじめの本質に一歩踏み込めなかった、いな、踏み込もうとしなかったことが、大きく影を落としているといえましょう。

 そして今回、日本の官僚体質からして、多分、あり得ないこととは思いますが、もし、動燃の総務部次長の家族が、「無理と分かり切っている事業」に従事させられ犠牲になったことに対して提訴したとしたらどうなりましょうや。そこで、原告の主張を認め、国に対し、事業の見直しと賠償義務の判決を下す裁判官がいたとしたら、国民の大多数は支持すると思うのですが、いかがなものでしょう。この問題は、今きちっとしておかないと、第二、第三の犠牲者が、きっと出てきます。

(96/02)