日本の宗教事情

 平成七年も後わずかになりましたが、いやはや、大変な年でありました。阪神大震災は天災で致し方ないとして、オウム真理教による一連の事件と明覚寺派の霊視鑑定詐欺事件については、多くの方が大いに憤慨され、宗教というものに対して、不信感と失望感を抱かれたのではないでしょうか。そこで、宗教法人法を改正しようという動きがにわかに活発化し、この種の重要法案としては異例の速さで、さる十一月十三日、改正案が衆議院を通過しました。

 この宗教法人法は、第二次世界大戦まで、国家の政策と深くかかわっていた神道を政治から分離し、新憲法に定められた信教の自由(20条)の原則に従って、すべての宗教を法人化しようとした法人令であります。それを今回、宗教法人が本来の活動から逸脱せぬよう、所轄庁及び信者によって監視できる体制を作ろうとしているのだと、私は理解しています。ですから、ある意味では、宗教法人を国家の管理下に置くということで、政教分離・信教の自由という立場からすると、それが進歩といえるのか、あるいは退歩してしまったのか、微妙なところではあります。

 ともあれ、今日のこのようなゆゆしき事態を引き起こしているのは、日本人が、宗教に対しての方向性を見失っていることに起因していると思われます。そのあたりのことに関し、小松和彦氏(大阪大学)は、
「日本の近代化は、日本人の伝統的精神、宗教心を抑圧し空洞化することで実現した―」「その空洞に戦前は国家神道(強制された倫理・道徳)が、戦後は物質的豊かさが配置され、それに帰依することで心の豊かさや精神的なものの欠落感や不安をいやせると、人々は信じ込まされてきた」「千年以上もの歳月を費やして築き上げてきた日本人の信仰を踏みにじり、日本人の心から宗教的なものを排除・追放し続けてきた歴史であった」云々
と、指摘されています。

 また、ひろさちや氏(仏教評論家)は、
「日本人は、ひじょうに科学を信奉している。私は、新興宗教の科学教徒であると名前をつけているが、科学は何かすばらしものだと、やみくもに頭から信じている。しかし、偉大なる田舎であるアメリカは例外として、ヨーロッパの健全なる精神のもとでは、科学というものは、悪魔の学問であると考えられている。科学は、なるほど必要だけれど、それは悪なんだという認識がある。ヨーロッパの知性の根幹には、この反科学主義の思想があるが、日本人の中には、この思想がほとんどない。科学といえば、一にも二もなくいかれてしまうのが、日本人じゃないかと思う」
と、おっしゃっています。

 つまり、戦後の日本は、宗教であるべきはずのものまでも、科学で代替してきたといえ、そして、そうすることが、知的行為あるいは文化的行為だと錯覚してしまっているところに、問題があるように思います。その結果が、宗教も科学もごちゃ混ぜにした、悪魔そのもののようなオウム真理教を、抵抗なく受け入れてしまう若者を作ったといえるのではないでしょうか。

 日本人の心に、健全なる精神を取り戻すためには、各家庭の中に、宗教的体験のできる空間と時間を設けることが、ぜひとも必要だと考えます。しかし、それは別に、立派な仏壇を作って云々ということではなく、食事の時に、自然の恵みに感謝することであったり、就寝時、今日の無事に感謝するということであったりといった、日常的な生活の中で、自然な形で行うことがなんだと思います。宗教的振る舞いは、親から子へ受け継がれるべき、大切なものでなくてはなりません。

(平成7年12月)