宗教の必要性(下)
宗教の必要性について、先回、@絶対的依存感情という観点から、述べさせていただきましたが、A霊的存在への信念、B超自然的・神秘的能力に対する畏敬についても、若干補足させていただきます。確かに、これから述べようとしていることは、科学的に説明できるものとはいえません。しかし、宗教にとって、もっとも宗教らしいものともいえる重要な部分でもあり、やはり、語らずに済ますわけには参りますまい。
まず、A霊的存在への信念は、来世の問題ということで考えてみます。
知識人の中に、「人間死ねば無であり、亡骸は海に捨てて魚の餌にしようが、灰にして空からばらまこうが、いっこうに構わない。葬儀も無用である」といった考え方をする人がいます。その根拠のひとつは、儀礼的葬儀や既成宗教に対する反発にあろうかと思います。その点、私ども宗教人は、反省しなくてはならないこともあるようです。
ただ、かくいう方々で、もし、最愛のわが子を亡くしたときに、そのようなことを、はたして平然といえるでしょうか。おそらく、そのような冷酷非情なことは、とてもいえないのではないでしょうか。私がまだ大学生で、京都の本山にいた頃のことです。学校が休みの時は、拝観にみえる人たちを案内するのが、学生僧に与えられたひとつの仕事になっていました。ある日、お医者さんのグループを案内したことがあります。学会か何かのついでに、ぶらっと寄ったものと思われ、目的があって訪れたものでないことはすぐ知れました。私がどう話しかけようが、若僧の説明なぞ、とんと聞いていないのですから。そして、本堂に通じる渡り廊下にさしかかりましたところ、折しも、広い本堂に重く響く木魚の音が聞こえてきました。と、グループの中でいちばん年輩と思われる人が、いけないことでもあるかのように、「この頃、この音が心地よく聞こえるようになった。年のせいかなぁ」と、ふと吐露されたのです。
その方は、多分、自分自身でも気づかれてはいないのでしょうが、心のどこかに、来世のことがあったんだと思います。私どもは、自分自身、あるいは身近な者との死に直面したとき、来世のことを考えるものです。できれば、それがいい状態であることを望むのは、自然の成り行きです。そのような来世として、浄土(極楽)があり、そしてそこに行けることができたなら、それに越したことはありません。ならば、素直に信ずればよいのではないでしょうか。浄土は「あるかないか」で論ずるものではなく、自分にとって、「あって欲しいもの」、それでいいのではないでしょうか。変に強がるより、精神衛生上、どれほど良いか分かりません。
次いで、B超自然的・神秘的能力に対する畏敬について考えてみます。
ある舞台女優さんが、「舞台には神様がいる」という話をされていました。本当のところは、舞台で演じた者でなければ分からないでしょうが、全身全霊を打ち込んだ体験から生まれた言葉であろうことは、素人のわれわれでも察しがつきます。また、ある高名な仏師が、「私は、木の中に既にいる御仏を、鑿でとり出させていただいている」という意味のことをおっしゃっていました。「おのれが」という驕った心ではなく、大きな大きな力で生かされているという気持ちが、そのような表現になったのでしょう。
つまり、人間は、真剣に事に当たったとき、神にも、仏にも会えるということでしょう。(平成12年11月)