宗教の必要性(上)

 先月、日本人の多くは、何のためらいもなく、無神論や無宗教であることを公言して憚るところがない云々と申しましたら、早速、幾人かの方から反論がございました。その論拠は一つではございませんが、便宜上《数学流に言えば「必要条件」であるということに対する疑問》に集約させていただくことにします。

 宗教のとらえ方は、人それぞれで、一様ではありません。ですから、宗教のどこを指して、無用なものといわれるのか、これまた一様ではなく、読む方によっては的外れになることも予想されますが、宗教とはいったい何なのかという定義づけから始めさせていただきます。

 一般的には、宗教は「人」と「聖」なるものとの関係をさします。しかし、何を聖とするか、またその象徴の範囲をどこにおくかで、定義の仕方は異なってきます。宗教学者は、@絶対的依存感情、A霊的存在への信念、B超自然的・神秘的能力に対する畏敬、C社会的団結力のシンボルなどをあげています。ただ、これらの全部についての必要性を説くことは、私自身としても出来かねます。仮に説いたとしても、科学と相反する部分が出てきたりして、数学的「必要条件」の証明には程遠いものとなりそうだからです。要は、哲学・道徳があれば事足りるという、宗教無用論にいかに答えるか、ここがポイントになりましょう。それには、@の「絶対的依存感情」をもってするのが、適切ではないかと考えます。そこで、次のような事例で考えてみましょう。

 「利己主義はよくありません」「他に迷惑をかけてはいけません」……。このようなことは、義務教育の道徳で教えています。それで、これを守ることは善いことだと、子どもたちは思っています。大人も、多くの人がそう思っています。本当に、これで十分なのでしょうか。もし、そうだとすれば、宗教は要らないということになります。ところが時として、麻薬をやって捕まって、「人に迷惑をかけているわけじゃないのに、どこが悪いんだ」と開き直るのがいたりします。やはり、それだけでは、何か足りないものがありそうです。

 道徳で、エゴイズムは非難の対象とされますが、人間は、元来、自分をいちばん愛しいと思っている、利己的なものであります。故に、その我が身の愛しさを知ったなら、同じ思いでいる他を傷つけてはならない、と宗教では教えます。

 同様に、迷惑はいけませんといいますが、人間は、本来、迷惑な存在です。出世して、狙いのポストを勝ち得れば、その陰で、無念の涙を流す人がいます。満員電車に乗り込めば、その分、みんなが窮屈な思いをします。自分が生きていくためには、牛や豚、魚たちにも死んでもらわねばなりません。つまり、人間は、生きているだけで、他に迷惑をかけています。故に、自分が今生きているということは、他から赦しを受けて生かされているのだと知り、他から受ける迷惑には寛大であれ、と教えるのが宗教です。

 以上のようなことは、仏・神と対峙し、絶対的依存感情が生まれたとき、その人の力として備わるものであります。それは、信仰を持った人の、心の深みとして具現化してくるものです。仏教では、絶対的依存感情を「安心」と呼び、それによって伴う行動を「起行」と呼びます。この二つは、呼称は異なっても、キリスト教・イスラム教にも、世界宗教と呼ばれるものには必ずあるべきはずです。

 すなわち、「人間が、より人間らしさを求めようとしたとき、必要とされるものが宗教である」ということになります。

(平成7年10月)