心の伴侶

 オウム真理教の一連の事件や、福島県の女性祈祷師宅で、男女六人の信者が変死していた事件など、宗教がらみの忌まわしい事件が相次ぎました。なぜこのような宗教ができたり、事件が起こるのかという問いに対して、日本人の「宗教オンチ」性を指摘されることが多いようです。

 見るからに立派そうな紳士淑女でも、「私は無宗教です」、あるいは「無神論者です」と、何の憚りもなく答えたりしますから、無理からぬところかもしれません。おそらく、そのようにおっしゃる方々は、先の大戦の反省、宗教の阿片性に対する危惧、既成宗教に対する幻滅、あるいは、非科学的な民間信仰に対する侮蔑等を、その根拠にあげられるものと思われます。しかし、学校教育の中で、あるいは家庭の中でも、宗教教育が現在の日本では行われにくい状況にあり、それらは、宗教の本質をとらえての発言とは言い難いようです。宗教というものは、人類の歴史と共にあり、なおざりにされて良いものでは決してありません。

 宗教を理解する上で、心理学の立場から、一つの興味深い指摘があります。つまるところ、宗教は、性欲と非常にかかわりが深く、根源は同じだというのです。

 たしかに、特定の宗教に一途になりますと、他が見えなくなります。正に、「恋は盲目」状態に陥ります。精神面において、物質面においても、献身的に尽くすことが、生活の全てというほどになります。もちろん、それがうまく昇華され、例えば、ジャンヌ・ダルクのように、世のため、人のためになる場合もありますが、日常性という観点からすると、多くの問題を引き起こすことになります。

 正常な成人であれば、誰しもが性欲を持ち、夫婦は、それによって、共に喜びや苦難を分かち合い、互いに信頼を深めていく力を得ることができます。それと同じで、宗教は、正しい接し方をすれば、精神面での良き伴侶になりうるものであります。

 ところが、世間においては、口にすることも憚る奇異な性愛が存在するようで、宗教においても、次元を同うする秘密めいた怪しげなものが存在します。そこで、留意すべきことは、宗教本来の目的を鑑みれば分かるはずなのですが、宗教というものは、あまりに精神や肉体を痛めつけるものであってはならないということです。さらに、盛り場の派手な女性と付き合うことは、楽しいことでしょうが、良妻とはなり得ないものです。同様に、派手な宗教は、金ばかり搾取されて、精神も肉体もズタズタにされてしまいます。

 かつて、四国では、妊婦が亡くなったとき、新しい樫の柄の鎌を造り、夫が死者の腹をたち、胎児を取り出して、二つの棺に納めて葬ったといわれます。また、今日、葬儀の折、家から棺を運び出した直後、門口で死者が生前使っていた茶碗を割るという風習が、ごく一般的に行われています。

 このようなことを、無意味なこととして片づけることは容易そうですが、あながち、そう単純にはいかないところに、宗教の難しさがあります。仏と我と、しっかり対峙して、自分自身を見失うことのないようにしたいものです。

(平成7年9月)