神道について

 何時でしたか、熱田神宮の神官の方から、こんなお話を伺ったことがあります。

 神宮の境内に参詣者用の便所を造ることになり、責任者の神官が設計案をたてて宮司に見せたところ、「確かここには、樹齢何百年かの樹木があったと思うがどうするつもりかね?」と聞かれたそうです。責任者の神官が、「はい、伐採するつもりです」と答えると、「樹齢何百年も経っている木を切っても良いのなら、たかが五十歳の君の首を切っても文句はあるまいな」と言われたというのです。確かに、神社には、必ず森があります。そして、その森こそ神宿るところであり、それを切るなぞもっての外というわけです。

 さて、大概の日本人は、神様と仏様を「神仏」という言葉でひとまとめにしてとらえている場合が多いようです。ところが、神道に関して、接する機会が多い割には、知る機会が少ないように思うのですがいかがでしょう。ですからでしょうか、先に紹介した話など伺うと、妙に新鮮に感じます。そこで、知っているようで、知らないこの神道について、数回に分けて調べてみることにしました。案外、われわれ日本人の潜在意識というものが、分かるかもしれません。

 神道は、日本人の宗教です。当たり前といえば当たり前のことなのですが、ここのところが重要なポイントのようです。仏教・キリスト教・イスラム教は、民族を超えて信仰されている世界宗教ですが、神道は、日本民族だけの民族宗教です。すなわち、「外人さん」には、入り込めない宗教であり、逆に言えば、日本人であれば、本人の意志とは関係なしに、その土地の神社の「氏子」にされている、あるいは、戦死者・自衛隊殉職者であれば、無条件に靖国神社に合祀されるという、不思議といえば不思議な宗教であります。

 さらに、もっと不思議なのは、宗教が成り立つための必須条件としての「教義・儀礼・教団」という三要素の内、「教義」というものがありません。そこで、戦前は、「国家神道」として、行政上は宗教ではないとされていました。神道は、「日本民族の生活原理」と定義した学者もいるほどで、祭祀儀礼を中心に行う宗教であることには、間違いないようです。

 ついで、「神」についても確かめておかねばなりません。『岩波仏教辞典』によると、
 日本の〈カミ〉の定義としては,本居宣長(モトオリノリナガ)(1730-1801)のそれが有名である.「凡て迦微(カミ)とは,古御典等(イニシエノミフミドモ)に見えたる天地の諸((モロモロ)の神たちを始めて,其(ソ)を祀(マツ)れる社に坐(ス)御霊(ミタマ)をも申し,又人はさらにも云(ハ)ず,鳥獣(トリケモノ)木草のたぐひ海山など,其余何(ソノホカナニ)にまれ,尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて,可畏(カシコ)き物を迦微(カミ)とは云なり.(すぐれたるとは,尊(タフト)きこと善(ヨ)きこと,功((イサヲ)しきことなどの,優(スグ)れたるのみを云に非ず,悪(アシ)きもの奇(あや)しきものなども,よにすぐれて可畏(カシコ)きをば,神と云なり)」〔古事記伝(3)〕とある.つまり,尋常普通の次元を超越する非常の力を有して人間の吉凶・禍福を左右し,そのため畏怖・畏敬の念を呼びおこすようなさまざまな存在が,日本の神々だというわけである.……

 なるほど、「尋常でないもの」「すぐれたもの」が神だというのですが、それは、「悪きもの」「奇しきもの」でもよいというのです。ですから、『古事記』『日本書紀』の神々はもちろん、歴史上実在した人物でも神になれます。有名なところでは、天満宮は菅原道真が祀られ学問の神様に、豊国神社は豊臣秀吉、東照宮は徳川家康、東郷神社は東郷平八郎というように、枚挙にいとまがないくらいの神様が存在します。他にも、痔で死んだ人が痔を治す神様になったり、巷間には、「野球の神様」「麻雀の神様」「泥棒の神様」なんていうのまでいます。

(平成7年7月)