いじめ問題について

 押し詰まってまいりました。平成六年は、皆さまにとって如何な年でありましたでしょうか。歴史は日々作られていくものですから、一時として止まることなく、大きく社会においても、小さく個人においても、大きなうねりあり、小さなうねりありで、そこには、常に喜怒哀楽があるものです。

 このところ、中学生が仲間にいじめられて自殺するという、なんとも可哀想な事件が相次いでいます。私自身が、中二の子の親であるということ、中学の教員をしていたということで、複雑な思いでおります。

 今回のいくつかの事件では、その責任はどこにあるのかと、さまざまな人が、さまざまな見解を述べておられます。これまでの意見では、学校側の対処の悪さを指摘するものが多いようです。なぜ、そこに至るまで気づかなかったのか、あるいは、気づいていながら、何もできなかったのか、という批判です。

 本音で言わせてもらえば、確かに、いい校長、いい教師のいる学校にはこのような問題は起こりにくいといえます。本来、中学校のような義務教育においては、教師が、教育全般の中で、教科学習に費やす労力の割合は、六〇パーセントくらいなものです。小学校の場合は、もっと低くなるかと思います。裏を返していえば、教科以外のところに気配りができる先生が優秀な先生で、良くない先生は、教科しか教えられない先生ということになります。

 語弊があるかも知れません。教師は一種の専門職であり、世間で、素晴らしく秀でた職人がそう多くはないと同じように、よい先生というのは、そう多くはないということを認識すべきです。つまり、学校教育に、あまりに多くのことを要求したり期待しない方がよいということです。

 では、親についてはどうかというと、こちらも、わが子の苦しみをしっかりと把握できていたなら、最悪の事態にはきっとならなかったでありましょう。世の中において、何か職に就くとか、責任あることをする場合、免許とか資格や試験、あるいは選挙や推薦といった手だてが必要になりますが、親になるためにはこれらが要りません。子どもが産まれたら、必然的に親になれます。ですから、親にも、もし資格試験が必須になったとしたら、とても及第点をもらえそうにない親がいっぱい出てきそうです。

 さて、そこでです。学校側も、親の側も、十分な状況下でない場合、さまざまな問題が、起こるべくして起こってきます。その時、どちらもが責任のなすりあいをしていたら、いつも犠牲になるのは子ども達です。「いじめがどんなに惨いものであるか知って欲しい」、「死んだ子に『お前が弱いからだ』なんて、間違ってもいって欲しくない」と、いじめられた体験をもつ生徒が、切実な思いで新聞への投書しているのを見て、つくづくそう思いました。

 泳げなくて溺れ苦しんでいる子に、陸の上から、叱咤激励することに、何の意味がありましょう。及び腰で縄を投げても、届きません。溺れることを覚悟で、自らも流れに身を投じなけれ救えません。そして、それは、優れた教師であればできましょうが、親であれば理屈抜きでせねばなりません。やはり、最後の砦は親です。

 家庭は、傷ついた心、荒れた心を癒してくれる、外気とは隔絶した母の胎内のような場でなくてはなりません。よい家庭を育み、よい年を迎えられるようにしたいものです。(95/01)