死刑について考える

 最近の刑事事件で、いちばん世間を驚かせ、震え上がらせたのは、自称・犬訓練士上田宜範容疑者による愛犬家連続失跡殺人事件ではないでしょうか。二月十四日には、農地から発見された被害者五人すべての遺体の確認がなされ、犯罪史上に残る凶悪殺人事件となることが確定したといえます。日本には陪審制度はありませんが、もし、皆さまでしたら、被告には、どのような判決を下されますか?

 この事件で思い出されるのが、昭和四十七年から十年間に、警察官から奪った短銃などで、東海・関西の男女八人が殺害された広域大量殺人事件です。この事件は、さる一月十七日、最高裁が、一・二審の死刑判決を支持、元消防士勝田清孝被告の上告を棄却し、逮捕から十一年ぶりに終結したことを、新聞は伝えていました。

 日本は、死刑制度があります。憲法三十六条で「……残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と定めていますが、「残虐な刑罰」とは火あぶり・磔・釜ゆでなどの刑をいうのであって、刑法の定める絞首刑はそれにはあたらない、と最高裁は判示しています。

 一方、死刑を廃止しようという強い流れがあります。人間が人間の生命を奪うことに対する人道主義的疑問、死刑の犯罪予備軍に対する威嚇力への疑問、誤判による死刑に対する救済の不可能性などが、その主な理由です。しかし、このことに関し、極刑を含む刑罰というものは、犯罪者本人に償わせるという意味はもちろん、被害者側の怒りや憎しみを軽減させる機能も合わせ持つ、ということを考えておかなくてはなりません。

 殺害された肉親の怒りは、想像を絶するものがあります。米国で、銃により倒れた服部剛丈君の両親は、その怒りを昇華させ、銃規制を訴え、クリントン大統領をも動かしました。並の人間では、できるものではありません。

『雑阿含経』他、いくつかの経典に、人を殺しては、その指をとって、糸につないで首飾りにするところから、指鬘外道とよばれた残忍きわまりない、アングリマーラの話が出てきます。

 アングリマーラは、釈尊の教化を受けて比丘となりますが、まもなくして、殺人鬼が、仏教僧団のあるジェータ林の精舎に潜んでいるという噂が立ち、人々が騒ぎ始めたので、パセナーディ王は兵を率いて、ジェータ林の精舎を訪れます。しかし、釈尊は、アングリマーラは、髪を剃り、袈裟を着け、殺生をはなれ、善業にいそしむ比丘となっている旨を告げ、彼を引き渡すようなことはしませんでした。

 やがて、アングリマーラは、他の比丘たちと同じように、町へ托鉢に出ます。その姿を見て、なお、彼に向かって、土や石をを投じます。そのため、ある時には顔を傷つけられ、ある時には衣を破られます。顔から血を流している彼を見て、釈尊は、諭します。

「聖者は忍受しなければならない。アングリマーラよ、忍受しなければならない。汝は、今、かつて犯した悪業をつぐなっているのだよ」と。

 ここで、もし、王の要請に従って引き渡していたら、おそらく、アングリマーラは死刑になっていたと思われます。釈尊は、それを避けました。しかし、町の人々の行う仕打ちには、黙認しています。それは、この場合、必要なことだと思われたからです。一人の犯罪者を更生させるためには、たいへんな配慮がいるということが分かります。

 人を裁くということが、いかに難しいことなのかということを、つくづく感じます。(94/3)