山をめぐる用水掘りの知恵

  立谷沢のほとりに田を開いた長南氏や、大鳥川のへりに住み付いた長南氏は、時々鉄砲水(てっぽうみず(山にふった雨が急に大水となってでてくること))に大きな被害を受けました。山形県大蔵村の豊牧(とよまき)に開拓に入った長南氏はなだらかな扇状地のかなめにあたる所から水を落とし、途中の田を順々にうるおしていくように工夫して耕作しています。

  豊牧では、かなめに当たる所に長者すずという泉があるので、まずこれを利用しましたが、家族が増えるにつれて水が不足したので、次のような工夫をしました。人間の体で言えば、背中の肩に近い所にある水源の水を、おなかにあたる所の田に引くために、わき腹を通りおへそのあたりまで、ぐるりと用水掘りを作るという工夫でした。

  1691年にその工事に着手するまで、長南氏は必死に知恵をしぼったのでしょう。このような土木工事はどこにでもあるというものではありません。

  土地の長南氏の話をまとめてみると、夜間にちょうちんを持った人を山の中腹に横一列に一定間隔でならばせ、離れた所から水が流れる傾斜に合わせて人間を上下に動かして、ゆるやかな斜めの線を作り、それらの人の立った所にしるしをつけ、昼間しるしをつなぐ溝を掘ったのだろうということがわかりました。

  長南氏は、さらに世帯数が増えるにつれ新田を開くのに、水がよけい必要となり、1724年には、溝巾をひろげるための工事費用を藩から借用したのですが、そのときのお願いの文書が長南氏に残っています。(875頁)

  この用水は今でも冷たい、すきとおった水がなめらかに流れ長南氏の田を広く豊かにうるおしています。