長南弥太九郎(ちょうなんやたくろう)の遠く、つらい旅
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銚子市内に、むかし海上城(うなかみじょう)という城があって海上氏(うなかみし)が住んでいましたが、1479年のいくさで落城して海上氏は滅び、城を守っていた長南弥太九郎と長南久太郎(ちょうなんきゅうたろう)はかくれ住む所をさがして遠くをめざして逃げてゆきました。そしてひとまず信州に入り、人から聞いてさがしさがして最終的に出羽国上田沢(でわのくにかみたざわ)へ入りました。二人が住むことにきめた上田沢は今の新潟県の村上市側から北へ朝日山系をこえてゆくしかない高い山や深い谷ばかりの地方です。
落ち着くまでの二人の苦労は、なみたいていのことではなかったのはいうまでもありません。二人が上田沢に土着してから3年あとに、二人を頼ってさらに一族の権兵衛(ごんべえ)、源兵衛(げんべえ)、長九郎(ちょうくろう)の三人がここに来ていっしょにくらすことにしました。
それから5人の人たちは、山で熊やカモシカをとったり川原を開墾して水田を作ったりの苦難の開拓を始めましたが、上田沢の川上にも川下にもいくらか同様の落人(おちうど)の先住者がいましたから、少しは援助してくれたでしょう。
かくて、生活もなんとかなるようになって136年ほどの後の世になり、徳川家康が大坂城の豊臣氏を攻めるときに、ここから長南久右衛門(ちょうなんきゅううえもん)が徳川方として軍勢に加わりました。
ところが一方でこのとき上総国から長南和泉守(ちょうなんいずみのかみ)が豊臣方についたことを考え合わせると、ふしぎな思いがします。
上田沢は、大鳥川(おおとりがわ)の両側に細長く田が作られ両側は山ですから、時には川が増水して田が流されることもあります。そこで長南氏は洪水から守ってもらおうと水の神様を神社にまつり、長南氏が代々神主をつとめています。
冬はこのへんは雪が多く、屋根につもった雪を落とさないと家がつぶれるほどですから、上田沢の長南氏の生活は昔も今もらくではありません。
鶴岡城下(つるおかじょうか)へ出るのに途中の大鳥川の両岸が断崖になっている尾浦(おうら)という所があって、昔はここでぶどうのつるをより合わせた太い綱を張り渡しておき、人はこれをつたって渡ったといわれます。(1056年)
現在、山形県の県花になっている紅花は江戸初期以前には見られなかったので、この時代に長南氏がもたらしたという説が最近にわかに有力となり、河北町の紅花資料館等では、はっきりとそのように説明しています。
長南氏は長南に土着してから、500年も紅花を育て、紅を税金として都に納めてきました。ですから長南弥太九郎たちが紅花の種子を懐に抱いて来たことは、十分ありうることです。上田沢の長南氏が現在、史実を証明しようと、紅花を育てながら、懸命に調査を進めてきましたが2000年、ほぼ定説となりました。
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