義経が静岡県の黄瀬川(きせがわ)という所で兄と対面し、喜んだ頼朝の軍団に加えられ、富士川の戦いで平家の軍勢を追いちらして鎌倉へ帰った時に由井ノ浜の犬追物を見物しました。義経のそばを離れたことのない忠春でしたから、いっしょに長南七郎顕基のみごとな腕前をを見たのです。 それからは、義経が平家追討(ついとう)の大将を命ぜられ、次々に平家の軍勢を破り都落ちした平家を追って西へ進軍したとき、義経のそばには弁慶(べんけい)、伊勢三郎(いせのさぶろう)らと共に忠春の姿がありました。 1184年には、有名な一ノ谷の奇襲作戦で、鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかおと)しといって高いがけの上から、がけの下の海岸に陣をはっていた平家の後へかけおりて、平家をさんざんに破ったときも、忠春は大活躍しました。その時のようすを描いた江戸時代の木版画の複製をつけましたのでごらんください。 そしてあくる1185年の3月には、下関の東に当たる壇ノ浦(だんのうら)で、源平最後の決戦が行われました。 源氏の武者達は、もともと騎馬戦が得意で海戦は戦ったことがありませんから、追いつめられて必死となった平家の反攻には、かなり悩まされました。 少年の頃京都の鞍馬寺で、天狗じつは源氏の武士を相手に武術をおぼえ、京の五条の橋の上では弁慶を手玉にとって降参させた身の軽い義経は、舟から舟へ飛び移りながらよく戦いました。 忠春はどうかというと同じようで、義経が八そうの舟を飛んだのに対して九そう飛んだという話が、山形県大蔵村(おおくらむら)の長南氏に昔から伝わっています。なにしろ主人より多く飛んだということは自慢すべきことではないと、ひそかに伝えてきたので知る人は少ないのです。 壇ノ浦の戦いでは、平家第一の武勇にすぐれた平教経(たいらののりつね)は義経を追いかけまわしましたが、そのようすを描いた版画を見ると、教経が追いかけ義経が宙を飛んで逃げる下の舟の中で、忠春らが船べりにつかまって目だけ出して小さくなっているものもあります。 (831頁) 義経に逃げられた教経は、近くにいた源氏の武者二人を両腕にかかえて、海に飛び込んだというのは有名な話です。 壇ノ浦の戦いは、結局平家が敗れ、義経は九州の宮崎県の奥まで平家を追ってゆき、平家を滅ぼしました。有名な「ひえつき節」という歌はこの時の歌をうたったものです。 頼朝、義経兄弟が力を合わせて戦ったのはこれまでで、平家が滅びると仲たがいをして頼朝は義経に射手をさしむけ、義経は変装したりして各地を逃げまわり、やっとの思いで再び平泉へ逃げ込みました。忠春もこれについていったのです。 ほっと一息ついたのもつかのまで、頼朝は藤原泰衡(ふじわらやすひら)に仕向けて義経を攻め自殺させてしまいます。その泰衡も数ヶ月のうちに頼朝に殺されてしまうのですが。 義経の運命に同情した人々は、義経は実は死なずに北海道に逃げたという話を作り上げ、東北地方から北海道の各地に義経にまつわる伝説を作りました。 そこで江戸時代の版画にも、蝦夷地(えぞち(北海道))へわたる大船の中央の高い甲板に、義経がよろいかぶとで見を固めていすにかけていて、まわりに弁慶や忠春がひかえているという絵があります。 (1072頁) しかし本当のことは、忠春は義経が死んだあと逃げて岩手県の山中にかくれ、そこで一生を終わったということです。 |