長南七郎左衛門(ちょうなんしちろうざえもん)、国府台(こうのだい)の奮戦 |
昔の武士団は、生れのいい血統書つきの人をリーダーとして戦争することが有利だと考えていましたから、古河公方成氏の二男の足利義明(あしかがよしあき)という、背が高く武勇にすぐれた者がいたので、上総地方の武士はそのもとに集まり、義明は市川市の近くの小弓(おゆみ)という所に屋敷をかまえて小弓御所などと呼ばせ、しだいに大きな勢力となってゆきました。
小田原の北条氏はこれを見て、ほうってはおけないと考え1538年に兵を出して義明に戦をしかけました。
義明はこれを迎え撃つために1万の軍勢をひきいて江戸川の東岸の国府台に陣をしいて待っていました。北条は2万の兵を3分して渡河を始めましたが、渡河が終わるまで何もせずに見ているだけでした。北条軍はなんなく渡り終わり、義明を包囲して攻めました。義明は大将なのに自分で大刀をふりまわしながら北条軍に切り込んでゆきましたので、北条軍は弓矢で義明を倒して勝ちました。
義明側についていた里見勢の中に長南七郎左衛門がいました。里見義暁(さとみよしたか)ははじめから本気で味方していたわけではありませんので、義明が討ち死にするとさっさと逃げ出しましたので、七郎左衛門もいっしょに逃げてしまいました。この時の様子が江戸時代の木版画になっています。(283頁)
この戦争のあと里見氏は、次第に勢力を広げ、北条氏の背後にいる上杉謙信(うえすぎけんしん)と連絡をとりながら、小田原城攻めを計画したところ、これが北条側に知られたので急に戦争することになったのが1564年1月でした。
前年と同じく江戸川をへだててにらみ合いましたが、里見のはかりごとにひっかかって突っ込んできた北条勢を打ち破ったので、北条勢はいったん引き上げました。
そこで里見勢は今日はひとまず勝った、明日はこちらから渡河して戦おうということで、よろいかぶとを脱ぎ、祝い酒を飲んで眠りこんでしましました。
これを知った北条軍は行動をおこし、夜明け前に夜襲をかけたからたまりません。かぶとはかぶったが、よろいがないとかその反対とかてんやわんやしているうちに北条軍が斬り込み、1時間ばかりであっけなく勝負がついてしまいました。
長南七郎左衛門は、里見義弘(よしひろ)の旗本でしたからさすがにゆだんなく戦いましたが、大勢を挽回できずに斬り死にました。
敵方である北条側の合戦の記録でも、七郎左衛門の勇ましい戦いぶりを伝えています。
長南氏の歴史の中では、七郎左衛門のように実戦ではなばなしく戦った記録は、ほかに見当たらないようです。長南家ではその武勇にあやかって(かねに七
)を店のマークとするところもありました。
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