1455年足利持氏(あしかがもちうじ)の子成氏が古河に住み古河公方と名乗り、関東地方の武士団に号令をかけて動かしはじめましたが、その命令で武田信玄(たけだしんげん)の一族である武田信長が房総半島に侵入してきて長南地方を占領しました。長南次郎善智麿以来530年ほどたった1456年のことです。
それまで千葉氏の勢力下にあって、長い年月を送ってきた長南氏にとってはこれは大きな運命の分かれ道となる大事件となってのです。
当時の長南氏は武士と農業の兼業でふだんは田畑を耕作し、戦争となれば太鼓森(たいこもり)で打ち出す太鼓の合図で屋敷へ走り帰り、手足を洗って武装し馬に鞍をおいて集合するという形で、いわばプロの武士ではありませんし、そうして集める武士も200人もいるかという状況でした。
そこへ武田信長が、たぶん2000人くらいの兵力で侵入してきたのですから、長南氏はひとたまりもなく、いわば無条件降伏の形で抵抗しませんでしたから、血が流されることもありませんでした。長南氏は武田氏の下にしばらくは、それなりに生活してきたようです。(284頁)
1490年には長南次郎が、長福寿寺に慈恵大師(じえだいし)の木像を寄進していますし、同寺の建設工事などには、かなり財力を提供しているのです。
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