1685年の新庄藩の分限帳に、長南弥五左衛門(ちょうなんやござえもん)という武士がのっていますが、おたがいの関係はわかりません。 しかしこの連中のうちに誰かにちがいありませんが、明治維新のときの話が伝わっています。 東北地方の6つの藩では新政府の力を見くびり、われわれは断固として幕府を守る、と同盟を結びましたので、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の兵士でできた政府軍は、天皇をあらわしたつもりの錦(にしき)という布地の切れはしを棒の先につけた旗を立てて「宮さん宮さんお馬の前に、ひらひらするのは何じゃいな...」と歌いながら軍楽隊入りで陽気に進軍してきました。 新庄は東京からくれば庄内への玄関口ですから、真っ先に官軍が入って来たところ、新庄藩はその勢いに驚いてすぐ降参してしまいました。 そこで官軍が、さらに進もうとして出発しかけると、新庄藩では東北六藩同盟を思い出して、政府軍にたてつくようなことがあったので、とうとう政府軍は怒って、新庄の町中はもとよりお城まで、兵士がたいまつを持って火をつけてまわりました。 腰をぬかした殿様が、お城にも入れず、逃げもできずにいるのを見た長南のおさむらいは 「さ、殿様、ここを下りてくだされ」 といって手を引き、城壁の上までつれて来ましたが、こんなときは高く見えて、とても下りるどころではありません。火の手は町の中を総なめにして、お城も今は最期と見えました。長南なにがしは、とっさに米倉からさんだわらぼっち(俵のふた)をもって来て、殿様のお尻にゆわえて、さあといって城壁の斜面をすべりおりさせたというのです。 殿様は、こうして秋田藩をたよって多くの家来や女子衆(おなごしゅう)をつれて逃げ延びることができました。(803頁) |