殿様のお尻にさんだわらぼっち

  新庄藩(しんじょうはん)の殿様の戸沢氏(とざわし)は、もと平家の出身といわれ岩手県盛岡市の少し西の雫石(しずくいし)に古くからいて、その後次第に出世して1622年に、山形県全体に領地をもっていた最上氏が亡びたあと新庄に移ってきました。

  1685年の新庄藩の分限帳に、長南弥五左衛門(ちょうなんやござえもん)という武士がのっていますが、おたがいの関係はわかりません。

  しかしこの連中のうちに誰かにちがいありませんが、明治維新のときの話が伝わっています。

  東北地方の6つの藩では新政府の力を見くびり、われわれは断固として幕府を守る、と同盟を結びましたので、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の兵士でできた政府軍は、天皇をあらわしたつもりの錦(にしき)という布地の切れはしを棒の先につけた旗を立てて「宮さん宮さんお馬の前に、ひらひらするのは何じゃいな...」と歌いながら軍楽隊入りで陽気に進軍してきました。

  新庄は東京からくれば庄内への玄関口ですから、真っ先に官軍が入って来たところ、新庄藩はその勢いに驚いてすぐ降参してしまいました。

  そこで官軍が、さらに進もうとして出発しかけると、新庄藩では東北六藩同盟を思い出して、政府軍にたてつくようなことがあったので、とうとう政府軍は怒って、新庄の町中はもとよりお城まで、兵士がたいまつを持って火をつけてまわりました。

  腰をぬかした殿様が、お城にも入れず、逃げもできずにいるのを見た長南のおさむらいは

「さ、殿様、ここを下りてくだされ」

  といって手を引き、城壁の上までつれて来ましたが、こんなときは高く見えて、とても下りるどころではありません。火の手は町の中を総なめにして、お城も今は最期と見えました。長南なにがしは、とっさに米倉からさんだわらぼっち(俵のふた)をもって来て、殿様のお尻にゆわえて、さあといって城壁の斜面をすべりおりさせたというのです。

  殿様は、こうして秋田藩をたよって多くの家来や女子衆(おなごしゅう)をつれて逃げ延びることができました。(803頁)