酒井氏(さかいし)に仕えた長南氏

   国府台の2回目の北条対里見の戦いがあった1564年頃、吉田城(愛知県豊橋市)にいた酒井忠治(さかいただはる)に召抱えられた長南氏が3名います。


   この3名がどこからどういう事情で吉田へ行ったのかわかりませんが、長南氏を名乗っている限り上総国長南庄出身しかありません。そうすると、1456年に進入してきた武田軍の配下にいるのがしだいにうっとうしくなり、とうとう100年ばかりたった時に何か働き口を求めて西に向かった3人が、ちょうど吉田城をもらってこれを守る武士を募集していた酒井氏にやとわれたのではないかと思うのです。


   この3人はまじめに働いたらしく、その後酒井氏が1604年高崎、1616年高田、1619年松代、1622年庄内と転々と領地が変わるにつれ、いっしょに移り最後に庄内の鶴岡で幕末を迎えることになります。


   この3人の子孫は江戸時代を通じて給人(下級武士)として酒井氏に仕え幕末には10家族の給人がいます。給人の仕事は戦争になれば鉄砲をもって出陣しますが、ふだんは藩の種々の仕事を受け持ちます。長南氏が受け持った仕事の例をならべてみると次のようになります。


   足軽つまり歩兵、鉄砲隊、雑役、旗持ち、召使、馬の世話、文書係、小間使い 
料理人、倉庫係、警備係、警察官、大工(1027頁)


   庄内藩に仕えた長南氏の中で目立った人を見ると次のようなことをしています。
長南光則(ちょうなんみつのり)は1840年に北海道の警備のため、松前に出張しました。また長南光亨(ちょうなんみつとし)は明治新政府の命を受けて庄内へ出兵して来た秋田藩兵と戦い戦死しました。1868年のことです。