見届けた西郷隆盛の最期 |
西郷隆盛が1877年に新政府に半旗をひるがえし、熊本城をかこんで鎮台(ちんだい)の守備隊に戦争をしかけたときに、鎮台兵として長南通久(ちょうなんみちひさ)がいました。通久は鶴岡の長南氏ですが、1873年の徴兵令で兵隊にとられ、ちょうどこの熊本にいたのです。そして、その警官隊の中には1877年5月に募集したときに、警官になった新庄の長南与七郎(ちょうなんよしちろう)がいました。
通久は包囲を破って援軍と連絡をつけたり、勇ましく戦ったのでついに中尉まで進級しました。 一方与七郎は、きちょうめんな人らしく、新庄を出発してから西郷隆盛が自殺する9月24日まで細かに絵入りの日誌をつけており、今も残っています。(808頁) かつて幕府が倒れたときには、庄内藩が最後まで新政府に従わず抗戦をしたために、降伏したあと厳しい処分がある筈でした。しかし、西郷が奔走して、ずいぶん軽い罰し方となったので、当時から今でも西郷の恩を忘れないで慕う人が多く、西郷が兵を挙げたときはそのお礼にと九州へかけつけた新庄藩士があったと言う話もあるくらいです。 その、西郷に攻められて苦戦したり、逆に城山まで追いつめたりした軍勢の中に、庄内長南氏や新庄長南氏がいたのです。 |