最上川とたたかう開拓の人々

  最上川は山形県の南にある飯豊山(いいでさん)と吾妻山(あずまやま)から流れだして、米沢、山形、新庄の盆地をうるおし、庄内平野を流れて日本海にそそぐ日本で7番めに長い川で長さが232キロメートルあります。

  最上川が庄内平野に入ってすぐに余目町(あまるめまち)という町があります。おもしろい名前ですが、これはむかし50戸の家を単位として村を作っていったときに、余った戸数だったから余戸と呼ばれたのが始まりです。

  余目町の中に沢新田(さわしんでん)と連枝(れんし)という所があります。これからお話するのはこの沢新田と連枝です。沢新田は立谷沢村(今の立川町)の人が新しく開いた新田なのでその名があります。

  今から300年以上もむかし、1650年頃に立谷沢村肝煎(きもいり)の森居兵九郎(もりいへいくろう)という人は最上川が庄内平野に入ってまもなくの所に、かなり広い土地が草木におおわれているのを見て考えました。

  「これだけ広い所を開墾したら、ゆうにひとつの村ができるのだがなあ」

  そこで兵九朗はおくさんといっしょに、さっそく開墾にかかりました。それを見た同じ村の木の沢の富樫徳右衛門(とがしとくえもん)は兵九朗のすすめで、自分も開墾の仲間になりました。

  これらの人々のねっしんな気持ちはむかしからの開拓者の誰にもおとりませんでしたが、当時の様子は楽なものではありませんでしたん。のちに沢新田から別れて近くに連枝という開拓地をおこした長南三右衛門(ちょうなんさんうえもん)が書いた沢新田史という本には次のように書いてあります。

  最上川は日本3大急流のひとつですから、大雨で水がふえると流れ   が強くなり、途中の田や畑を流してその泥を運んできて、このあたりにひろげるので土地がよく肥えていますから、草木がいきおいよくのびます。竹やぶは2メートル以上になり、所々には大きな木が見上げるほど高くなり、きつねやたぬきの巣があります。野鳥は群れをなして生活しています。最上川が運んでくる泥のたまり方で丘ができたり、流れでえぐられた所が沼や池となって残り、青空をうつして鏡のようです。

  丘は3メートル以上にもなり、池の深さは2メートルもあるので、これらを平らにして田や畑にするのは、当時の人々にとってらくではありませんでした。今ならブルドーザーなどの大型機械を使えばかんたんですが、長南利右衛門(ちょうなんりえもん)らは馬や牛ももたず、2本のうでと道具といえば斧(おの)や唐鍬(とうくわ)だけでこうした原野に立ち向かったのです。その苦労は今の人にはそうぞうすることすらむずかしいでしょう。

  人々のくらしはといえば、地面に柱を立てて草で屋根をふいたごくかんたんな小屋で、なかは地面に草やもみがらを敷いただけのものです。着るものはあらい麻布と毛皮です。くつはありませんから、わらであんだわらじです。

  ふだん食べるものは玄米です。玄米を白い米にする臼や杵がないからです。それにアワ、だいこん、乾燥野菜をまぜる食事です。

  このような生活をしながら、毎朝くらいうちから仕事を始め、月が出てから帰るという労働をつづけて、田や畑を少しづつ作りひろげていったのですが農業技術は今のように進んでいないために、大風で稲がいたんだり、天候がわるいと稲がみのらないこともあります。

  最も大きい問題は最上川の大水でした。

川水が増えてきて土手をこえようとすると、住民全員がそのときしていたすべての事をやめてかけつけて、雨でも風でもほとんど徹夜で土を運び、土俵をつみあげて水を防ぐ。しかし大自然の力は、わずかな人たちの努力を軽くけちらして、せっかく汗水たらしてみのりまでこぎつけた田は1面の砂やじゃりのはらになっていまい、泣く泣く別のところに移って開墾のやり直しということもしばしばでした。

  こうした歴史の中で、1663年頃に立谷沢村中村から長南利右衛門と長南傳吉の祖先らが沢新田に移り、その子孫の長南三右衛門がさらに新しく開拓した村を連枝と名付けて住みつきました。連枝というのは、同じ幹から出ている仲間という意味で、沢新田との結びつきをあらわした名前です。

  江戸時代が終り明治時代にかわる時に、最上川のために住民の苦労がいかに大きいかを知った本山勝之進(もとやまかつのしん)という新政府の役人が、最上川の流れを昔の形に戻そうという大工事を考え、自分はどうなってもいいから洪水が永久に起こらないようにするための2万円という当時としては大変な金額を出してほしいと政府に交渉し、ついに工事をなしとげることができました。

  長南氏の昔の祖先たちが、房総半島のという暖かく暮らしやすい土地を逃げ出して東北地方にちらばって、谷や山奥で生活をはじめ現在にいたるまでどのようなつらい開拓の歴史をつづってきたのか、この沢新田と連枝の話が代表するでしょう。それについて書いたものがほとんどありませんが、想像していただけると思います。(953頁)