菅原道真と梅の花

 

  菅原氏となってからこの一族からは学問にすぐれた人がつづいて出ました。

中でも有名なのは菅原道真です。道真は大変な努力をして広く学問をおさめ、学者として世の中の人々から高い尊敬をうけるようになりました。

 

  当時の日本はすべての学問や技術を中国大陸から学んできましたが、これは630年から続けてきた遣唐使(けんとうし)つまり唐の国への留学生が学んで帰ってきた知識が中心でした。留学生の中には最澄(さいちょう)、空海(くうかい)円仁(えんにん)のような立派な僧や学者が多く、日本の分化発展に大きな役割を果たしたのです。

 

  しかし当時は往復の航海でたびたび船が嵐で沈みましたし、この時代になると唐の国力も衰えましたので、道真は遣唐使をやめることを天皇に申し上げその通りとなりました。

 

  道真はその後右大臣(うだいじん)という高い位に登りましたが、その人気をねたんだ左大臣(さだいじん)の藤原時平(ふじわらときひら)のたくらみで、とうとう901年に北九州の大宰府(だざいふ)の、今までより低い位の役人を命ぜられ都を去らなければならなくなりました。

 

  九州へ向かって出発するときは、家の庭に梅の花が香り高く咲いていました。この梅に向かって読んだ道真の歌は有名です。

 

    こち吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな

 

  このうたの意味は、春になり東風(こち)が吹くようになったら、主人がいなくても春を忘れないで匂い床しく花を咲かせよ、というもので梅をこよなく愛した道真のやさしい心がこめられています。

 

  この頃、道真には善智麿(ぜんちまろ)という名の赤ちゃんがありました。この子や奥様を都に残して遠い九州へ旅立っていったのです。

 

  大宰府での生活はみじめで「かつて宮中(きゅうちゅう)で天皇からくださった衣服をおしいただいて当時をしのんでいます。」というような漢詩(かんし)を作ったりしたこともあります。気候風土が変わったためか体の調子をこわし、都の奥様から送られた薬もはかばかしく効かず、とうとう903年2月に59才でなくなってしまいました。

 

  その後、都ではふしぎなことに雷が落ちて火災がしきりに起こったり、ほうそうという伝染病がはやったり、よくないことがつづいたので、人々は道真の霊がこのようなたたりをしているのではないかといっておそれました。

 

  そして道真を天神(雷の神)としてこわがったので朝廷もすてておけず、923年には道真に対し右大臣に戻し、正二位(しょうにい)の位を贈って霊を慰(なぐさ)めました。

 

  このようないきさつがあって、道真の菅原一族の人たちは、就職や出世も思うようではありませんでしたが、道真の名誉が回復されると、もともと秀才が多いこの一族からは次々に位の高い役人になる人が出てきました。

 

  道真の三男の景行(かげつら)は常陸介(ひたちのすけ)という長官になって

茨城県に来ましたが、その時道真の遺骨を持ってきて真壁町(まかべまち)の羽鳥(はとり)というところに神社を建てておまつりしました。これが天満天神宮として日本で最初の神社です。  

                                     長南氏の研究 118頁

 

  特にめだつのは、一族の中から上総国(かずさのくに)、下総国(しもうさのくに)、安房国(あわのくに)の長官になった人が9人にものぼることです。子の人たちはつぎつぎに都から下ってきては2年ほどで都へ戻るということをくりかえしていました。

 

  これらの人の中には菅原孝標(たかすえ)があり、そのむすめは上総国にいる間に源氏物語を読んでは都を恋しがっていましたが、いよいよ都へ帰ることになってから都に着くまでの日記をつづりました。これが有名な更級日記(さらしなにっき)です。

 

  道真は梅をこよなく愛した人でしたから、道真の子孫である長南家(ちょうなんけ)は梅を家紋としました。今でも梅鉢(うめばち)を家紋とする長南家が多いのはそのためです。そして梅は小枝であっても火にくべるなとか、核(かく)を割って食べてはいけないとか、いろいろ梅にちなんだしきたりやタブーがあることは、皆さんよくご存知でしょう。