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全国長南会通信  27号
2007年1月1日発行  全国長南会
長南年恵100年祭(鶴岡市般若寺)            2006年11月3日
2006年11月3日(金)般若寺境内にて集合写真。撮影は取材の方にお願いした。
藤川 亨胤 般若寺住職
長南 俊春 全国長南会長久喜市
斎藤 武夫*副会長 東京都献花
中村 就一 同上事務局長 柏市
中村 ひさ 同上夫人
白井ヒサエ*蒲郡市 お線香代寄付
長南 武   阿見町長南会会長
長南 照光 同上副会長 阿見町
長南  清 阿見町
長南 高男 阿見町
長南 秀則 阿見町 HP管理人
長南みどり 仙台市 長南儀平夫人
平田 洋子 仙台市 みどり長女
畠山 弘    伝説民俗研究家鶴岡
佐藤政之助 丹波哲郎友人 鶴岡市
千葉 寛容*年恵筆跡所蔵 鶴岡市
千葉 聡子 同上夫人 年恵肖像画

  富樫富之助*年恵筆跡所蔵 鶴岡市
武田 京子 鶴岡市
渡部 啓介 年恵位牌管理 鶴岡市
土田  稔 鶴岡市
飯野 斉   尺八香風会 鶴岡市
田代 仁行 同上 鶴岡市
玉木  睦 同上 鶴岡市
長南 君子 長南牛肉店 鶴岡市
長南 光洋 長南鍼灸院 鶴岡市
長南 明重 鶴岡市
長南 真啓 鶴岡市
長南 力   NPO松柏会常任理事
長南 光   長南会の宿 知憩軒
長南 成   庄内長南会会長鶴岡市
長南智恵子 同上夫人

佐久間 昇    大蔵村史執筆者 鶴岡市
中村正太郎   文化財愛護会 鶴岡市
  菅原 謙吾 佐藤政之助知人鶴岡市
大戸 喜晴 年恵研究者 鶴岡市
中村 進    武田京子知人 鶴岡市
長南 利幸 酒田市
長南 由市 沢新田
戸屋 芳乃*献花 長南由市親類
長南 儀一 沢新田
加藤 勝美 沢新田 長南由市知人
長南 寿一 町史編纂委員 狩川
長南 時雄 狩川
長南 賢一 肝煎
富樫 幸子 千葉聡子知人 鶴岡市
長南藤太郎 長南藤四郎の甥
長南  浩  上田沢 長南和志長男

             計48人(*内当日欠席5名)
極楽娘長南年恵百年祭    鶴岡市  長南  成
有史以来の盛会
                                        2006年11月3日、晴れた空の下、庄内長南会主催の今回の行事は、鶴岡市の般若寺に於いて開催された。全国各地から結集した長南一族はもとより、地元の鶴岡、庄内、酒田等からの参加で43名、このほか史料提供、献金、献花で参加の有志も含めれば48名にのぼる。
これは長南会主催のイベントとしては、史上最大、まさに奇跡的で、あの年恵姉さんもニコニコしてること疑いなしと思われるスタートだった。

 定刻の11時、本堂に年恵の位牌を安置し、藤川住職が着席して法要が開始された。
 まず庄内長南会の会長長南成氏が開催に至る経過報告の後、司会を勤め、まず全国長南会事務局長中村就一氏が年恵没後百年の意義につき述べ挨拶とした。
 次に、地元の香風会による手向けの曲「一二三鉢返調」の尺八演奏が年恵の位牌を前に、嫋々と流れ、参会者は襟を正す心地になったようだ。
 住職の荘重な読経に続いて、全員による「読み下し般若心経」が読誦された。普通の法要は僧侶だけだが、今回は参列者全員が心をこめてお経をあげたことが特記される。
 この後、同寺にある年恵のお墓に参拝し、それぞれが香華を手向けた。

 昼食の後は13時から講堂で、鶴岡市第四学区文化財愛護会からの20名も加わり、60名で座談会が開かれた。

 開会に先立って、全国長南会会長の長南俊春氏から、長南氏以外からの多数の参加にお礼の挨拶があった。
 続いて尺八による献笛「絲綢之路」が奏された。この曲はシルクロードのテーマソングで、前出の中村氏夫妻が人生を長南氏の歴史研究に没頭した長い苦難の路に感謝して捧げられた。
 座談会は、長南成氏の司会で進められ、基調講演として伝説民俗研究家の畠山弘先生から、年恵の生い立ちのお話(別項)があった。
 
長南年恵法要
年恵の墓に献花

   弘法大師のお筆先も

 大師が年恵の手を持って、筆を振るった筆跡の掛軸(千葉寛容氏所蔵)が目前に掲げられ、さらに山本勝也画伯(水戸市朝日町2759)制作の年恵の油絵肖像画(同千葉氏)を目前にして、聴衆は百年の昔に帰った心地になった様で、身を乗り出して聞き入っていた。

 続いて中村氏から、千年以上にわたる長南一族の歴史の流れと、その中での極楽娘年恵の位置づけ、年恵が現した霊能力による奇蹟の時代背景等についての話を聞いた。

 今回のイベントでの話題の一つは、茨城県から参加した5名の長南氏で、阿見町長南会会長の長南武氏らは当日の朝5時に霞ケ浦のほとり青宿を出発して、日帰りだった。

    (左写真、香風会による尺八演奏。左端長南成氏の報告から)
長南年恵100年祭に参加して  青宿  長南秀則
 
  最近は、マジックともちがう、イリュージョンなどとも呼ばれるものでテレビなどで本当に不思議な映像が紹介されている。実は、私もミスターマリックが、手のひらの上で観客の持っていた車のキーを触ることなく、見る見るうちに曲げてしまうのを実際に見て驚いたことがある。しかし、これらには「タネ」や「しかけ」があって、「人を騙す技術」だろうと思うが、年恵の場合は正真正銘の本物であり、丹波哲郎氏が言うように、年恵は一般人から見ればかなり普通じゃない人間だったようである。

  いろいろな話から、長南年恵の能力は、無から有を生み出す力、予知能力、時空や空間を移動する能力などを持ち、さらに「食物摂取」「排泄作用」がなかったと言う事実。また、20才ころから成長が止まったかのように、いつまでも少女のままの容姿だったという、あまりに人間離れした現象を知るにつけ、
 
ある時期から、彼女は特別な「使命」を与えられ、彼女は「神」になったのではないかと思われる。 「神」ゆえに物欲がなく、困った人々を助けて見返りを欲せず、人々から「極楽娘」と呼ばれ、使命が終わると、自分の死の時期をも予言し、この世から去っていった。

  同じ長南姓を持つ自分自身も見習う部分がたくさんあり、若い人には、年恵の事実を良く知ってもらいたいと思う。

  2年前の同じ日、長南年恵の勉強会参加に続いて2回目の鶴岡市訪問。地元の長南氏ゆかりの方達とは、もはや顔なじみとなり、楽しく懐かしい気持ちで1日を過ごしました。
 
紅葉の山形自動車道 月山を背に
極楽娘長南年恵の生涯  2006年11月03日 鶴岡市般若寺  畠山弘氏のお話から
 長南年恵は文久3年に生まれ、明治40年に44歳で亡くなった巫女(みこ)さんです。当時はこの町に巫女さんがいて、男の呪術師(じゆじゆつし)もおりました。これらは真言宗で湯殿山系で、もう一派は修験者で盛んに神おろしをやっていました。

 長南年恵もその一人ですが、やった事は不可解なものです。私にとって、これは摩訶不思議(まかふしぎ)な、人間では到底理解できないのです。

 しかし非常に光りまして、興味ばかりでなく、アウトロー的なものを探っているうちに即身仏と、この長南年恵という二つの不思議な個性に出くわしまして、なんとか判るところまで掘り下げてみようと思ったわけです。

     

 無から有を得る

  この年恵さんのいわゆる巫術(ふじゅつ)、呪術(じゅじゅつ)の摩訶不思議な点は、無から有を生じさせていることです。私には理解できませんが、おそらく年恵さん自身もわからなかったのではないでしょうか。

 即身仏の連中は自分からその道を選んだのだから、自分で意識してのことだった筈です。しかし年恵さんの巫術は、何故自分に霊力があるのか、ご本人にも不思議だったのではないでしょうか。

 年恵さんが亡くなって百年、信者も世を去って久しいわけです。長南会の皆様は身内という感覚でつながっているかもしれませんが、われわれにとっては完全に客観的に見ております。

 世界的にも珍しい奇蹟

 従って全て過去の体験、経験をふまえてから推し量るわけで、そこから見たら、彼女のやったことは、そんなばかなことはある筈がないと思われるわけです。しかし、われわれの体験経験以外の次元で何らかのことが起こっているとすれば、理解できないのが当然です。年恵さんのやったことは、そのようなことだと思うのです。
この方の巫術の中で、日本的をはみだして世界的に有名になったのは、彼女は物品引寄せ霊媒つまりそこに無いものを引寄せるわけです。

 その中でも、水を引寄せること、これについて不思議な力をもっていた人だと思います。例えばこの話を出すと、お集まりの皆様の中で何人かの方は、直ちに現代のマジックを思い出すでしょう。マジックも今は進歩して、目の前でやられても、わからないマジックもあります。しかし、これにはタネも仕掛けもあることは当然です。

  もちろんマジックは江戸時代からありまして、例を挙げれば女義太夫の水芸でしょう。美人の太夫が持つ扇子の先からピューツと水が噴出しますから観客の心を魅了してやまなかった。しかし、あれは陰で黒子の連中が汗だくで水を操っているわけです。それを解っていながら、やはり一つの風物詩として人々が引き付けられていったのです。しかし年恵さんが水を引寄せる術は、水芸とは全く違います。

     

   小学校にも行けず

 彼女の生い立ちから見ましょう。皆様が先ほどお墓にお参りしましたあの墓から外を見渡すと、サイギという看板が見えたでしょう。お菓子の問屋です。サイギさんの車が2台入ってますが、あそこが年恵さんの家があった所です。

 鶴岡市に小学校が11校出来たのは、明治7年ですが、入学した人はほんの一握りで、年恵さんは残念ながら入れませんでした。従ってここに掲げてある掛け軸の文字も、年恵さんには、ナンダコレ?ということになるわけです。

  大師のお筆先

 この雄渾な筆跡は、弘法大師が彼女の手を持って書かせたということになっているわけですが、しからば読んでみなさいといわれても、読めますか、ちょっと無理ですね。これは自動記述という事だと思います。無学の彼女がこの書を書いたことは事実ですが、その背景は謎です。

 当時は次男、三男坊は農家へ奉公に行くのが普通でした。女の子は子守奉公です。年恵が奉公に出たのは現在の山王町で、昔は長山小路と言いました。ここは奥の細道を書いた松尾芭蕉が3泊した所です。

 かなり大きい家に奉公していたのですが、そのうちに彼女は、予言めいたことを語るようになり、それを聞きつけた近隣の人達が訪ねてくることから、いわゆる「よろず相談承り所」的な形になったわけです。

  行者が医療行為の時代

 雇い主からも「いっそ巫女さんとして開業したら」と言われて、行屋を作った。その行屋は橋の手前の足立商会という自転車屋のところです。ここで摩訶不思議な巫術が行われたのです。

 なにしろ、当時は身体が具合悪くなると、お医者さんにかかるのは珍しく、行者を呼んでくるのが普通でした。湯殿山の行者つまり隠形(おんぎょう)は、そのために居たと言えます。隠形は病気を治して歩いたのです。

 私にも覚えがあります。青年時代に私は心臓神経症になり、飯を食べると動悸がひどくなり、10年間殆ど寝たきりでした。祖母が和尚さんを連れてきて、枕元でお経を読むわけです。これは何だと思ったら湯殿系の行者兼真言宗の僧侶で、お布施は500円でした。お札を置いて帰りましたが、病気は治りませんでした。

 ところで、年恵さんの巫術の最たるものは、病人がいると、ビンに名前の札を貼り、本人が来られない場合は代理の人が持って来る。例えば10名分の10本のビンを祭壇の前に立てる。年恵さんが神おろしをする。トランス状態に入ると、不思議なことにそれらのビンに、すす−つと水が入るのです。10本とも色も、入る量も違うと言います。(脇に飾ってある年恵の肖像画を指しながら)この人、ここで聞いていますから、プラス アルファの話は出来ません。聞いた通りの事を言っています。(笑い)
   甘酒を引寄せ

 ある寒い日のことです。信者が集まっている席で、年恵さんは茶碗を出しました。そして「こんなに寒い日には、甘酒でも飲もうよ」と言って彼女が始めました。トランスに入ったと思ったら、見る間に甘酒が茶碗に入りました。その席で甘酒を実際にいただいた人が私が子供の頃に話してくれたことです。

 かくて、巫術により霊水引寄せの霊媒、という評判が広まりました。なにしろ世をあげて文明化開化を唱えていた明治時代のことですから、警察は黙って見て居られません。

「なんだこの娘、インチキやってる、放っておけない」と馬場町にあった監獄に閉じ込めてしまいました。

 夏の盛りです。蚊がブンブン飛びまわっているので、獄吏が蚊帳を持って行ったのですが、彼女は要らないと言ったたそうです。たしかに蚊は彼女を刺さないと獄吏が証言して、たまげていたと言います。

食事を持って行くが手をつけない。大小便もやった形跡がない。一体この娘は何者なのかといぶかしく、正体がわからないまま、うやむやになってしまったというのです。


 何処で習得したか

 このように年恵さんは、不思譲なことをいろいろやったが、如何にしてその霊力を身につけたのか、また神おろしの方法を何処で誰に習ったのか、教えた人がいる筈です。

 この点は、客観的に見ると少し見えてくるのです。一つは彼女のお墓に「大講義」とあるのをご覧になったでしょう。あれは神道系の職名です。ここの寺でこの人の葬儀は、御嶽山から来てやったのです。彼女は御嶽山の行者だったから大講義の位を贈られたのです。これは神道です。

 神道には神社神道と教派神道とがあり、後者の中の御嶽教は山岳信仰で、修験道と結びついていますから、年恵さんの巫術はこれでしょう。

 南岳寺に淡島大明神の示司があり、年恵を祭っています。淡島大明神は和歌山の加太神社の信仰です。淡島信仰の本体は何物か分かりませんが、淡島行者は戦後まで此処に居ました。手にザランザランと物を持って淡島の縁起を祭文にして唱えて歩くのです。

   
 
  年恵さんには淡島信仰も入っていたと思います。
 しかし彼女の巫術はどこの誰からどのようにして、教えられたものか。私の母の話では、行屋でやっていたことは、どうも湯殿山の神おろしに似ている、但し違う面もあるようです。

  新聞記者の懐疑

 また、大阪の弟のところに行った時は、生き神様が来たというので、信者が詰めかけたから、警察も放置できず困っていた。

 新聞記者は、「生き神様だそうだ。霊水引寄せとやらをやって見せろ」と要求した。彼女は、けろりとして、いいでしょと電話ボックスの中に入った。

 記者らは取り囲んで見ている。もちろん霊水が下ったが、記者たちは、口から吐いたんだろうと言う者もいたが、どうもその形跡はない。ひとりでに水が入ったのを認めざるを得ない。何んだこれは、わからんというままになった。明治33年7月9日の大阪朝日新聞の記事がこれです。 
    神おろしの不思議

 湯殿山で修行したあるご夫婦は、奥さんが神おろしをやっていたのですが、そのおろし方は湯殿山行者と酷似しています。

 湯殿山の神おろしのやり方は、行者がまず太鼓を打つ。それが終わると、あぐらをかいたまま手足を縛る。手に梵天と錫杖を持ち、周りを囲んだ和尚さん達がお経を唱える、終いには畳を叩く。そのリズムによって行者がトランス状態に入っていく。こうした湯殿山修行をした吉田さんのお婆ちゃんのおろし方は、祭壇の前で先ず太鼓を叩いているうちに、身体を揺すってくるという、割合単純なおろし方でした。

 うちの婆ちやんの言うには、行屋の前に格子戸があり、ざらんざらんといろんな物がぶらさがっていて、いつも中から太鼓の音が聞こえていたそうです。

 行屋は、6畳間がありこれは信者の控えの間、奥に祭壇、その後ろには居間という間取りです。

 年恵の映画は

 この祥伝社の雑誌「微笑」ですが、私の本から抜書きするのだと思っていたら、劇画にしたのです。しかし、どうも作者と出版社との間でトラブルがあったらしく、前半だけの本になっています。

 年恵さんの映画のことですが、長南会で協力するとすれば、1億、2億で足りるでしょうか。丹波さんは映画「大霊界」で大きな足を出していますからね。

 この映画の話は、出ては消え、出ては消えしていましたから、藤沢周平氏も切歯扼腕して残念がって、結局あきらめたと言っていました。
          (文責中村就−)
南岳寺にて
新発見と驚き      長南由市
 七重八重かさねし罪の雲すらも
                   消えて跡なき智恵の光に

 これは庄内梅花観音八十八霊場第五番名刹般若寺のご詠歌であります。

 私は50歳の年に巡礼者として訪れて以来20年の歳月が過ぎ去りましたが、以後は今回の年恵百年祭まで二度と参詣することもなく、年齢を重ねて参りました。
 年恵の存在と、その墓碑が般若寺に建立されていることを初めて知ったのは、2000年8月15日朝日村の月山あさひ博物村での第4回長南氏のルーツを語る会に弟由雄と共に参加した時でした。

 その後、庄内長南会代表の長南成さん主催の「長南年恵をめぐる勉強会」の第1回と第3回に出席しました。

 歴史に疎く、とりわけ超能力者の研究など門外漢の私には年恵研究家や縁りの方々のお話を、ただ聞き役になって参りました。

 第3回では畠山先生の講話を拝聴して年恵の人間像を少しばかり知ることが出来た次第です。

 百年祭の当日は、私の呼掛けで参加してくれた、長南儀一、長南時雄、加藤勝美の諸氏と共に出掛けた時には、冴えない空模様でしたが、到着した頃には、すっかり快晴。山門前にて、ご高齢とは思えない元気な中村先生ご夫妻と2年ぶりに再会し大感激でした。   
 
  定刻法要に先立ち、成さんたち香風会の皆さんの荘重な献笛に身がひきしまる思いが致しました。

 ただ、最後に全員で唱える「よみくだし般若心経」の読経が迫力を欠いたきらいがあったと反省して居ます。


 午後、座談会にご出席の畠山先生は伝説民俗研究家であると共に高名な俳人で、県現代俳句協会会長の要職にあります。今回の先生のお話を通じてわかったことは、神道は神社庁が管理するほかに独立している教派神道13派があり、天理教も含まれることです。

 南岳寺境内の淡島大明神の大正4年御宮新宮寄付者の中に、私の隣集落小出新田の中村蔵右衛門参円と記録されていたのも驚きでした。


                            文化の日 年恵没後の百年祭(沢新田)
調べたい先祖  平田洋子
 11月2,3日は本当に素晴らしい思い出でいっぱいです。長南年恵さんが引き会せてくれたんですね!

 鶴岡でお会いした人々は、どの方も魅力的で暖かかったです。また鶴岡を訪れてみたいナという気になりました。
 それにしても、"長南一族"を発掘して光をあてた中村さんの業績はすごい!と思いました。ありがとう!
 最近フッと思ったのですが、私の母みどりの旧姓“榛澤”を調べてみたら面白そうだナと。

 当主は16代目。家建替えで古文書が行李ひとつ分出てきたが、ネズミが巣くっていてボロボロ。かろうじて残っていた文書も古書体で読めず、廃棄したようだ、と母から聞きました。

 すごく残念ですが、それでも何か残っていないか、生きている人から聞き取りだけでもしたいと思います。

 榛澤家という農家が時代の中で生きてきた姿が浮び上がって来ないかなーと、思うのです。

 中村さんが楽しみながら(苦労はいっぱいあったでしょうが)フィールドワークしてきた姿に触発されて思ったりしてます。
(仙台市)
紅花栽培に意欲     長南良一
    釜石市の長南良一氏は、千葉県長南町の「長南べに花を育てる会」(会長石井敏夫)の事務局長森川剛典氏から紅花の種子を貰いうけて、釜石の地で花を咲かせるこころみに挑戦し、このほど見事に成功した。写真は2006年釜石市の自宅の庭。

  なお、寒風沢でも長南富枝さんが紅花栽培をこころみているが、未だ成功していない。凝灰岩の地質だからなのか、富枝さんは語っている。
ご注文はメールでお願いします。
    送料込み(円) 概要
書 籍 長南氏の研究 一般20,000 中村就一著 A6 1899頁
会員10,000
土師菅原史記 2,500 長南良一著 古代から道真までの研究 B5 631頁
天神様の美術 3,000 NHK制作 道真1000年記念関係の文献、絵画を収集 A4 340頁
長南年恵の生涯 800 雑誌微笑別冊 A4 208頁(売り切れました)
錦 絵 ひよどり越え 2,000 71×36センチ 江戸末期版画カラー原寸大
一の谷 2,000
壇ノ浦 2,000
蝦夷地渡海 2,000
4枚セット 5,500
先祖書巻物 1本 100,000 予約金、送料込み
2本(1本あたり) 73,000
4本(1本あたり) 57,500
6本(1本あたり) 51,400
※会員とは既に毎年会費を納入している方、今回購入の機会に入会する方の年会費は初年度8,000円、以後は金額自由。

 会員には「全国長南会通信」が配布されるほか、「長南氏のルーツを語る会」等各種行事に参加できます。
ch0330@support.email.ne.jp
おかめひょっとこにぎらっぺ

    鴇たかし・作詞
    岡田佳久・作曲
    鈴木英明・編曲
    長南みず代・唄

忍び愛

    鴇たかし・作詞
    岡田佳久・作曲
    鈴木英明・編曲
    長南みず代・唄

    キングレコード