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全国長南会通信  24号
2006年6月1日発行  全国長南会
長南忠春800年祭記念バスツアー  宮古市
 1189年4月、源義経(31)は藤原泰衡に衣川柵を急襲され討ち死にした。忠春は間に合わず、後に田老青沙里(アオザリ)で病死したと伝えられている。820年ぶりに忠春最後の地を尋ね、全国長南会としての慰霊祭を挙行します。

 期日:7月7日〜8日(金、士)

     日 程

 7日(金)    土浦駅東口07:00出発
    仙台でピックアップ→宮古市田老
    田老の寺で長南忠春800年忌
    青沙里長南忠春展墓
    泊り:グリンピア田老ホテル
       Te1.0193−87-5111

 8日(士)    08:30グリンピア田老出発
    浄土ケ浜 → 釜石 → げいび渓 → 高館義経堂、中尊寺 →
         一ノ関 → 配志和神社で菅公夫人吉祥女展墓 → 仙台 →
         久喜 → 柏 → 青宿

 会費:35,000円(ホテル代含む。昼食代、見学料金等は含みません)

 仙台乗車割引あり
  (その他、東北自動車道バス停で乗車も可能)

  予約:郵便振替で振込み、通信らんに参加者氏名を記入してくたさい
  
 振込み期限6月28日

   主催:全国長南会 04−7166−8216中村就一
  緑色の岩が砂になり、青砂里となった
芸術価値高いひよどり越え屏風  東京港区
  さる4月20日、東京田町駅改札口で、林氏が「全国長南会」と大書した旗をかかげて一回りしたら、これまでの全国長南会の集まりでは見たこともない、長身の麓人が駆け寄つてきた。
 
  聞けば、新宿の長南畳店の令嬢だった。さらに、若い紳士長南雅也氏も... こうして一行6名は、徒歩5分の港区立郷土資料館へ。
 
  雨上がりの晴天だが、当日は休館日とあつて人気がない。しかし、俊春会長が事前に交渉して、特にわれわれだけ、目当ての部屋に案内された。

 部屋いっぱいに広げ立てられた屏風があつた。一の谷から屋島の戦い、壇ノ浦までの戦況を続きものの絵として制作されたもので、場面の区切りには黒色の海があり、時間の区切りには、金色の雲が横たわるという、まことに巧妙に構成されている。

 だから、義経、弁慶らの姿は場面ことに見られ、顔つきから顔色まで同一で、さらに鎧の細部まで細かく描かれている。

 われわれ一言天眼鏡で見てまわる始末だが、書の画家の眼が良いのは、驚くばかり。ただ、残念なのは、錦絵のように武者の氏名がないから、山あいの急坂をまさに降りようとする武者のどれが長南七郎忠春なのか、とんとわからないもどかしさがある。
 一同は、十分に観賞してから、近くの店で乾杯して解散した。
 無料で拝見できるから、機会を作って拝見するといい。

対面記念に中村さんと長南里美さん
新宿  長南里美

  20日は大雨でどうしようかと思ったのですが
集合場所に合流出来た途端に雨が止みすっかり晴れていい天気となりました。

中村さんは80歳を超えてるにもかかわらずとっても元気ですね。
熱心で情熱的なところに圧倒されました。
また、長南氏の歴史をひとつ見ることが出来て良かったです。
新宿  長南雅也

この日は全国長南会の集まりがあり、田町駅近くにある港区立郷土資料館に伺った。

内容は、長南忠春が、義経、弁慶らと共に平家追討のため、ひよどり越えの逆落としに臨む屏風を見学する。というもの。

歴史が過去にあった出来事である事は、頭では解っていても身近に感じる事は少ない。今回は自分の祖先が歴史の登場人物であるところから、多少歴史を身近に感じる事ができ、新鮮だった。

普段は苗字というシンボル、キーワードとしてしか用いていない『長南(ちょうなん)』この名前を持った人々の歴史=祖先の歴史改めて、自分の中に流れる血が、様々な人々の時間の積み重ねの上に成り立っているという事が再認識できた。

また歴史を探り、守る働きをしている方々の考えについても、興味深いものがあり、得るものの多い有意義な時間を過ごせて、本当に良かった。

今回は平日昼間という事もあり、若い人が少なかったが、若い参加者が増えて、様々な世代の意見が交換される場が作れたら良いのだが。

歴史に残るものがある姓であることをまた誇りに思った瞬間でもありました。

本物の屏風が2年後に公開された際には是非そちらも見に行きたいと思っています。

もうご存知かもしれませんが、20日の集合写真は中村さんや他の方が撮られたので私は撮っておりません。

でも念願の中村さんとのご対面記念でツーショットを撮りました♪
寒風沢ご先祖墓供養事前調査進む  寒風沢
 10世紀初頭に菅原道真の一子が、上総介に任命された兄に伴われて、上総国長柄郡の南、長南に来て土着し長南氏の祖となり紅花を育てて都に紅を貢納して喜ばれた。

 しかし、室町末期戦乱の時代に武田信長により故地を追われ、安房の里見氏を頼ったが、後に里見氏改易となり、長南和泉守は一族を率いて伊達藩寒風沢に逃れ3年後に永住許可がおりた。

 寛永年間に長南和泉守は忠臣36士とともに長南屋を創立し、江戸との海運業に励む傍ら、島々浦々に黒松を植えて名勝松島を創り、瑞巌寺の雲居国師の賞状を受けた。

 現在、同寺の栽松記念碑は全国長南会が2003年に賞状を刻んで建立したもので、これにより名勝松島を創った長南氏の功績が世に知られるようになつた。

 寒風沢の長南屋は、石巻に分家した長南和泉守の長男茂左衝門の湊屋と共に江戸時代を通じて繁栄を極めた。
立っているのは皆さんを指導しつつ調査する長南勘一氏

島の長南氏に悲運が

 し方し明治維新で寒風沢が廃港となったところに、海難事故で膨大な借金を抱え、長南7家族が返済を分担した。うち5家族は家財を手放して返済に当てて離島し、今は数十年に亘り返済に辛酸を嘗めた2家族が残つている。

 こんな事情から島の長南一族は、祖先の墓を守ることも不如意のまま現在に至った。特に長南家の元観音墓地には、奮闘して長南屋の歴史を築いた祖先の墓碑が天を仰いで転がっている。

 先年全国長南会で長南和泉守夫妻と忠臣36士の墓を改修したが、参詣に訪れる他国の長南一族が、この現状に心を痛めることしきり、ついに今回の企画を立ちあげるに至った。

祖先の皆様集まって
     今回は、島内各墓地を再調査して、お守りする子孫がいないか、いても現状を改善するに至らないものを、島内1,2箇所にまとめ、五輪塔と祖先名簿、建設資金寄付者名を刻んだ墓誌を建てて供養し、何時でも誰でも礼拝できる形にする企画で、江戸初期以来長南屋のために働いた祖先の皆様に、今後永く安らかに眠って頂こうというものである。 全国長南会で一言寺や家庭の過去帳から祖先名簿を作り、2004年に長南親雄、岡貰造両氏の努力により初めて長南墓碑を調査し島内墓地から148基の古い先祖の墓を確認した。

今回は2006年3月11日方ら13日の間に長南勘一、同賢造、同兼夫、同正義氏、中村夫妻を主力に、塩竃シルバー人材センタから及川三喜男、加藤正志、小開通、萱場靖4氏の支援を得て、徹底的な調査を実施し、200余の確認を済ませた。

センター派遣の方に瞠目

 島内7箇所の墓地について、長南勘一、同賢造両氏が人材センターの方と組み、3名2組で手分けして調査したが、事前にセンターの菊田所長に作業の日的、内容等を連絡して、墓碑の年号等の漢字が読める方を希望しておいたところ、完璧に対応してくれたようだ。

 市営巡航船から上ってきた顔触れを見ると、高校教師や企業の高級管理者を経験したインテリといった印象で、あとで聞いたが図書館で必要な予備知識を仕入れてきた方もあるという。

 江戸時代には年号が将軍数の3倍の36もあるから、法名独特の難解な漢字とともに調査には手間かかかる。

 用意の先祖名簿等の資料により打合せの後に、いざ出発となると、作業服に着替え、見るとポケットに碑面をこするブラシや、金属のヘラ等を差している万全の用意。これには目を見張った。

 現地では、重い墓碑を動かすのにバールも用いて、能率を上げたという。やはり、高校生等のアルバイトを頼まなくてよかった、と感謝するばかり。
  墓碑のロマン

 初日は晴天だったが、次の日は小雨、でも作業にかかる頃には止んだ。3日めは、なんと白いものがチラチラ。でもすぐに晴れ。長年の経験で、これは先祖が喜んでのことと疑わないが、仕事には全然支障なかった。

 現地の墓碑調査では、21歳の娘を抱き起したり、族長らしい偉そうな何左衛門さんをひつくり返したりの連続で、荒仕事だが、年配と経験で、能率よく進行する。でも、彫りの浅い文字には、水をかけるなど苦心したようだ。

 「演説妙廣信女」などの法名には、「よほど説得力ある話をした奥様だったのか」などと感心する余裕もあるが、「随露童女」には、露が葉末から落ちるように、はかなく消えた幼い命を想い、しんみりすることも。
寒風沢島長南会の墓碑銘調査作業に参加して  シルバーセンターの皆さんより
小関 通

  塩釜シルバーセンター事務所より、長南家墓碑調査の依頼があり、興味もって参加しました。寒風沢の宿で中村氏ご夫妻に会い、長南家のルーツの概略を説明され、早速、調査をはじめ天候にもめぐまれ作業も順調に進みました。約四百年前よりの墓碑で文字が風化して判読に苦労しましたが、作業が進むにつれ、法名のなかに普段目にしない使用しない文字に出会い、驚きと同時に当時の人々の苦労と生活に、ロマンを感じました。

 幸い私の先祖は、大体解明されてまして政宗と共に米沢より移住し山形地方の長南家の方々の、DNAとつながっているのかな?と勝手に想像してます。今回の調査も、何かの縁があったのではと思ったりしてます。ご夫妻には、いろいろ気遣いいただきまして、今回の調査大変意義のある楽しい三日間でした。
後列左から萱場、小関、加藤、及川、前列左から勘一、賢造、中村

萱場 靖

  寒風沢島・・・遠い昔一度訪れた記憶があるものの、その後は学生時の級友が居りながら、久しく訪ねたことはなかったのですが、シルバーセンター会員としての仕事とは言いながら、巡航船に乗る機会を与えられ乗船したのは、恐らく70数年ぶりのこと、改めて歳月の流れに感無量の想いを致したことでした。

  センター事務局からは「碑文の転写、現地での指示に従って」ということでしたが、作業の説明に併せての「長南家」の来歴、同僚が調べた略歴表は実に370年も遡る壮大なもので、ただ”驚いた”の一言でした。 いつか、伊達家の葛西家ほかの地方豪族の討伐、数多の政略結婚、戦国時代を生き残って正宗までの本を読んだ覚えがありますが、ここ寒風沢に集められた墓石も亦その一つ一つがその時々の栄枯盛衰に関わって家を守る歴史の中にあった方々を思うとき感慨亦一入のものがありました。

  私共、三日間お手伝いさせていただきましたが、世にある総ての人は祖先が有って、歴史が有って、「今」があることを考えさせられる三日間でした。
及川三喜男

  以前より浦戸の寒風沢に興味があって、市の主催する歩こう会に、健康のために何度か参加して訪れたことがあります。
 
  もともと歴史に疎い私ですが、前もって市の図書館に赴き、寒風沢の長南氏について調べたり年号をコピーするなど準備をし、今を遡ること400年前に長南和泉守が新天地を求めて来往され、年月をかけて港を構築されたことなどに想いをめぐらしながら、感一入の三日間の作業でした。

  いろいろと勉強させられたことも多く、また中村就一先生の謦咳に接することが出来たことは、私にとって大変有意義であり、この度の調査にお手伝いできたことはこの上もない喜びと思っております。
  なお、不慣れな作業で魯魚の誤りがありましたら、どうかお許しください。

末筆ながら中村先生御夫妻のご健康とご多幸をお祈りして離島いたしました。
栽松賞状をめぐる長南、阿部両家
 江戸時代初期1615年、安房舘山かから渡来した長南和泉守と忠臣36士は苦労の末、寒風沢水道の崖を削って現在の湊地区を造成し、長南屋として海運業に励み、さらに島々に黒松を植えて名勝松鳥を創成した。

 同じ時代に、牡鹿半島北側の雄勝町名振で、同業で栄えた阿部家としばしぼ縁組みがあった模様。

 11代長南清八郎の後妻のぶは、その一人で、阿部家系図で、のぶは阿部周作に嫁したが、周作が天折した後に、いなに死なれた長南清八郎の後添えとして、寒風沢に来て、12代となる一人娘あいが産まれた。

 明治政府は幕府が重用した寒風沢港を廃して、野蒜などの築港を進めたため、対抗して寒風沢港の施設拡充を図った清八郎は借金を重ねて破産し、失意のうちに他界した。

 のぶは、あいを連れて転々し、あいに先立たれた後は、横浜の阿部重郎兵衛方に身を寄せた。

賞状流転

 のぶは、長南和泉守が瑞巌寺雲居国師から戴いた栽松賞状を所持し、死後は寒風沢元観音に共に埋葬するよう遺言していた。重郎兵衛はのぶの死後、瑞巌寺に鑑定を受けた。

 その足で、親類の五嶋氏に寄りこれを預けた。そのおかげで後の戦火を免れ、現在河北町の五嶋家に保管されている。これを写して、全国長南会は2003年に瑞巌寺に栽松記念碑の建立を実現した。

 今、寺の案内人は長南和泉守が松島を創成したことを語り、名勝の由来が初めて世に知られた。
   
和泉守の拓本をとる中村ひさ夫人

系図

阿部源左衛門−+
       |
       +−阿部周作−+
       |      |
  ?  −−+      +−阿部重郎兵衛−+
              |        |
          のぶ−−+        +−勝三−+           岸田真一−+
                       |    |                    |
                  ちう −−−+    +−泰三−+           +−理菜
                 |          |    |           |
                 五嶋氏     せつ−+    +−−−貴子−+
                (重郎兵衛の妻の弟)       |
                               辰子−+
        長南清八郎−+
              |
              +−−あい
              |
          のぶ−−+
阿部辰子さんからの礼状  神奈川県藤沢市
 長南のぶの墓碑の写し御送付いただきまして、有難うございます。感激して頂戴いたしました。長年、中村様御夫妻と長南の方々の御苦労によりまして古墓改修に到り、今回はセンターからの人々の御力も加わりました由、感謝でございます。

 直接御手伝い出来ない私共ですが、重ねて御礼申上げます。身近に曾々祖母ノブの墓碑写しを置ける幸せを実感しております。

 美しい立派な写しで感動一入でこざいます。

 2006年、全国長南会は寒風沢の長南和泉守等の祖先祖の改修計画を進めている。その資金寄付の呼び掛けに応えて、のぶの曾孫辰子さんは10万円、その娘基子さんは5万円を拠出し、長南家の感激の的となつている。
 
駿女を読み
船橋市  中村正董

「駿女」楽しく読み終わりました。
森の匂いがする陸の奥の血なまぐさいが、爽やかな負け戦、長南忠春のさりげないが力強い影、由衣の颯爽と駆け抜ける姿、そして、最後の、蝦夷の魔術が起こす誰にも分からないテロ。

なかなかのロマンでした。蝦夷、その住んだ土地など、勉強にもなりました。 (中村就一弟)

     
   横浜市  向井覚

   奥州の北端に馬の名産地があった。そこで育った少女「由衣」は裸馬でも乗りこなせるほどに馬の扱い方も上手、しかも手製の弓の名人でもあった。文治5年の春、由衣は叔父や従弟の八郎丸と平泉に出かけた。

  八郎丸が烏帽子の親に会って、元服するためであったが、一行が平泉に到着した翌朝、烏帽子親に予定していた源義経が藤原泰衡に討たれてしまったのである。あわてて一行は屋敷に帰ってみると、由衣の両親たちも藤原の手先に殺され、しかも弟は連れ去られてしまった。

八郎丸は義経の子息であったが、相馬家にあずけられていたのであった。由衣は翌朝只1人で藤原の手先を追いかけ、弟を取り返そうと戦っているとき、義経郎党の長南忠春と常陸坊海尊の両人に助けられた。
    以後、長南忠春の活躍が述べられる。頼朝を討つために兵を挙げるが、利あらず敗れて義経の嫡男も死に、長南忠春も常陸坊海尊も姿を消した。

建久10年、頼朝は落馬してそれが元で死んだ。それに由衣が何をしたかは自分で読んでください。
                      (電々公社10月会会長)



中村就一氏の作品紹介  柏市
           
房総の盛夏 自画像 紅葉の山形路で