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全国長南会通信  21号
2005年11月11日発行  全国長南会
上総郷土史研究会
 長南町で長南氏の歴史の話をした時に、房総は歴史の宝庫だと聞いたら直ぐに長南殿、長南屋敷等の地名を知った。そこでこの会をつくり勉強中。会は毎月第3土曜日午後。会場は交互に長南町と大多喜町の中央公民館。
  これまでの講話は

  @武田信長の上総侵攻以前の長南氏について
  A上総国の君塚氏について
  B知られざる上総真実史など

 会費1000円。全国長南会から長南俊春会長以下長南氏も参加。特に千葉県下の長南氏の参加をお勧めしたい。                    
平成17年8月20日(土) 於 長南町中央公民館
武田信長の上総侵攻以前の長南氏について        千葉敬愛短期大学  樋口誠太郎
1 はじめに

 私たちの郷土に長南氏という武士がいて活躍していたことは知られていますが、よく問題になるのは庁南氏というもう1つの名前が出てくることです。
これは書き方をまちがえているわけでもなく、先祖がちがうので、名前もちがったということです。
 この辺を少しくわしくとりあげて見ることが今回の課題であろうと思います。
一応の下限を康正2年(1456)に武田信長が長南に入るまでとしてそれ以前の古い当地の様子をいろいろとりあげて見たいと思います。

2 「ちようなん」に最初に来た人

 平安時代後期に律令制下の長柄郡が解体して、長北と長南の二郡に分かれる以前、菅原氏系地方官が伴ってきた菅原善智麿(滋殖)が長南に土着し長南氏の祖となりました。この子孫は長南氏を名乗ったといわれています。
一方古代末期の千葉氏から分かれた上総氏の一族で国衛の在庁官人を兼ね、後の上総権介広常について活躍した庁南氏がありました。
 「ちょうなん」氏が歴史的文献に見られるのは「吾妻鏡」の治承4年9月19日戊辰の条に

   上総権介広常催一具当国周東、周西、伊南、伊北、庁南、庁北輩率二万騎参  上隅由川辺.武衛頗鳩彼遅参敢以無許容之気....

とあり、ここに庁南氏の名前ガ出てきていて、上総権介広常に率いられている一党の武士であることが判ります。そこで上総権介広常の下に属していた「ちょうなん」氏は前に長南氏がいるので、一時「庁南」を名乗りますが後には「長南氏」を名乗るようになります。
 『わがふるさと長南』に、源頼朝時代の当地域の武士の分布図がありますが、ここには長南太郎重常の名が見られ、重常の子は長南次郎久常と称しました。
『源平闘争録』には、長南太郎重常の名が見られ、野口実氏は上総権介広常の兄弟、印東次郎常茂の子だとしています。
 また『吾妻鏡』巻十建久元年1190年11月7日の源頼朝上洛の記事中の随兵先陣の第38番目には「庁南太郎」の名が見られます。

 しかし此処で問題になるのは平広常が寿永2年(1183)12月に鎌倉幕府の営中で梶原景時に暗殺されてしまうことです。そこで上総権介広常輩可の一族の結束は弱くなって「庁南氏」を名乗っていた武士も、長南という土地に住んでいることから長南を名のっていくようになったのではないでしようか。
  さらに、宝治元年(1247)当時上総権介千葉秀胤は鎌倉幕府の評定衆をつとめる有力武将でしたが、この年に三浦泰村が、鎌倉で反乱を起こしたため幕府は、同じ千葉族の大須賀氏、東素暹を差し向けて先ず三浦を亡ぼし、続いて秀胤は妻が三浦泰村の妹であったため千葉秀胤を攻めさせた。千葉秀胤一門はことことく火中で自殺するという悲劇がおこり、それ以後上総氏に属した武士団は姿を消し、長南氏は菅原系が残ったといって良いでしよう。

3 長南氏と長福寿寺

 現在長福寿寺は長南町三途台にあります。言い伝えによると長南氏(菅原系)が根拠地としたのが長南町三途台で、長南氏の始祖長南次郎(菅原善智麿)は、ここに居館を設けて開拓に着手し、次第に勢力を拡げやがて地名の長南氏を名乗りました。
  一方長福寿寺は、寺伝によると三途台の北北東数キロの地点にありました。長南氏は、それを三途台の旧居館跡に移転し、同家の菩提寺としました。これは三途台が長南城の鬼門に当たるためたとも言われますがはっきりしたことは判りません。
  なお長福寿寺は今から約1200年ほど前の延廣17年(798)桓武天皇の勅願によって、最澄によって創建され、南北朝時代の文和年間(1352〜1355)に比叡山恵光坊義憲僧正によって再興された由緒ある寺院であると同時に関東における天台教学の学問所として広く房総内外の寺院子弟の教育にあたり関東の天台宗の要ともなっています。

5 笠森寺と長南氏

 長南町笠森の笠森寺は通称笠森観音といい本尊は十一面観音で、寺伝によれば延暦3年(784)最澄が当地に来た時、一夜山中に光を放つものがあるので近付いて見ると、観音像であった。そこで自らも古木をもって約2メートル20センチの十一面観音を刻み、かの観音像を胎内に納めました。

 そして長元元年(1028)勅願により、山上の丘阜に四方懸造りの本堂を建立し同年11月8日に本尊を還したといわれています。その時比叡山延暦寺座主良源の法弟解超大僧都が大導師を勤めたということです。

 また笠森寺縁起によりますと「時の与力の旦那」として長南小次郎と刑部三郎の名が見られます。刑部三郎は佐是(現市原)郷の領主で上総権介平忠常の息子で刑部三郎成常のことであると考えられています。一説によると長南と町北の郡名は忠常が子どもに所領を分与したことに始まるとも言われています。
 また笠森寺創建については民話調のおはなしが伝わっています。寛仁4年(1020)頃、後一条天皇は皇后がなくなられたので、全国から皇后にふさわしい女性をさがすことにして前のなくなられた皇后様にそっくりな女性でなければいけないということでした。
  上総国の長官は直ちに国中におふれを出し、少女たちを集めました。その中に恩茂里という名の少女がいて上総介の目にとまりましたが、美しいだけではなく乙女として一人前の仕事ができなくてはだめだということで田植えをさせて見ることにしました。当日は皆が若々しいきりっとした姿をしていましたが、恩茂里だけは頭からからびしよぬれでした。上総介がわけをきくと今朝家を出るとき雨がふっていて、笠やみのを着ていたのですが、途中道ばたの観音様が雨にぬれていたので、自分の笠とみのを観音様にお着せしたとのことでした。上総介は恩茂里を都に推薦し、この乙女を都に送る役目は長南庄の長南小次郎ら4人の若武者に命じました。
 やがて天皇の皇后となった恩茂里に、天皇が「欲しいものを言ってごらん、かなえてあげる」と言われました。恩茂里は少し考えていましたが、生まれ故郷のあの観音様にお堂を作ってあげたいと言いました。天皇はそのわけを聞いて心をうたれ、やがて立派なお堂を建ててあげました。これが現在もある笠森観音堂です。

(「長南氏の研究」より)

6 日蓮上人と長南氏

 日蓮は貞応元年(1222)現在の千葉県安房小湊に生まれ、鎌倉仏教の一派である日蓮宗を興した僧侶です。彼は12歳で安房清澄山に登り天台宗を学び、後に鎌倉や比叡山、南都、高野山で修業し、仏法の真髄が「法学経」にあることを悟り建長5年(1253)清澄山に帰り旭ノ森で太平洋からのぼる太陽に「南無妙法蓮華経」と唱え立宗宣言をしました。そして他宗をいろいろ批判しました。
  「念仏無間」念仏などを唱えていると無間地獄におちる
  「禅天魔」禅宗は悪魔の教えである
  「真言亡国」真言宗を信じていると国を亡ぼしてしまう
  「律国賊」律宗は国を盗む泥棒のような宗教だ
 このようなことを鎌倉の辻に出て人々に話し方けたからたまりません、中には石を投げる者もいれば、日蓮を襲撃する武士もありました。
 文応元年(1260)北条時頼に「立正安国論」を提出しますが、この年8月松葉ケ谷の庵室を焼き打ちされ、市川の真木胤継の許に逃れました。
 文永元年(1264)8月故郷に帰り母の病気を治し、11月東条の小松原で地頭東条景信に襲撃されました。
 この事件の後、日蓮は長南の岩附谷の長南次郎光重のもとに来て、かくまってもらいました。日蓮の教えを聞いた光重は、日蓮の考え方に感動し家族一同が日蓮の熱心な信者になりました。日蓮は光重に「長立山光重寺」という寺号を与えました。
また日蓮自筆の「南無妙法蓮華経」と書いたお題が与えられ、これは現在長南町の長立山本詮寺に保存されています。
 弾圧を受け、追われている者をかくまうというのは大変なことであったでしよう。日蓮はその後、笠森観音堂に移りますが、供養に訪れる人も少なかったようで、長南光重の家臣墨田其が光重の命で供養に来る程度でした。現在観音堂にこの様子を描いた絵馬が奉納されています。
7 おわりに
 「ちようなん」氏というと「庁南」か「長南」かということが話題になります。中には一方は宛字ではないか、という方もあります。今回のテーマは、そうではなく「庁南」と「長南」両氏が存在したということ、しかし地方武士の特有の傾向として婚姻などを通して同一化が進んだり執権北条氏の謀略により主家が滅亡し、長南氏へ統合され、最後には長南氏になつていくという過程があったかと思います。
しかし、これは今後の課題として実証的研究が必要でしよう。
常陸の国と雑多な歴史の話         青宿  長南秀則

  慶応4年5月、大村益次郎率いる新政府軍と上野彰義隊の戦いがあり、あっけなく彰義隊が敗れるわけですが、その彰義隊の一員であった「長南平七」が東京の斎藤氏に助けられ、後にその子孫が中村就一氏と結婚し、長南氏の先祖調べが始まり、「全国長南会」が結成されました。
  そんなドラマチックな話に魅せられて、歴史の流れに興味を持ち、また、今回、長南町での樋口先生の講義に聞き入り、歴史のおもしろしさを再発見した気分になりました。

橋上のだましうち

  常陸の国は、古くは中臣鎌足が現在の鹿島神宮のあたりの出身といわれ、飛鳥時代に大和の国へのぼり、大化の改新を起こしました。後に、藤原氏として長い間、朝廷政治をつかさどります。そして、菅原道真をおとし入れるという、長南氏にとっての大事件が発生します。
  また、中世の源頼朝挙兵の頃、常陸の国を治めていた常陸介佐竹義昌は、源氏と同じ清和源氏流の出身でありながら、平家側に組していたため、頼朝から佐竹討伐命令がでて、現在の石岡市の霞ヶ浦に流れる恋瀬川の橋の上で、佐竹軍は頼朝軍と対峙します。橋の名を大矢橋といいます。頼朝軍の中での最大の豪族である上総介広常は、常陸介佐竹義昌とは親戚関係にあるといいます。広常は大矢橋の中央に進み、義昌に「やあ、常陸介!」と親しく声をかけ、頼朝が和睦をしたいという書状があると、一通の手紙を取り出し、義昌に手渡ししようとして、わざと手紙を落とし、義昌がそれをひろおうとした時、広常は義昌の後ろに回り、羽交い絞めにして、小太刀で鎧の隙間からわきの下を3回刺し、やがて義昌がくずれ落ちたた時、まだ息があるうちに首を掻き切ったといいます。だまし打ちでした。その後、敗れた佐竹軍は常陸の国の北の山奥に入って行きます。

   
 大矢橋と佐竹義昌の首塚(石岡市大字石岡16038-2)

広常も同じ運命

  佐竹義昌殺しの実行犯、上総介広常はというと、頼朝の命で梶原景時に暗殺されます。頼朝や北条時政から、広常の存在が大きくなってゆくのを恐れられ、さらに、広常が謀反を企てているらしいとのうわさが流れたため、頼朝は景時にだまし討ちで殺すように命じました。
  景時は広常を訪問し、双六を始め、お金か物を賭けているため、広常が夢中になって盤面を見ている時、景時は双六盤を飛び越え、背中から抜き打ちに斬り、広常は即死したといいます。
 

常陸美人が秋田へ

  また、関が原の時代には、常陸介である佐竹氏は豊臣方に組したため、敗れて徳川に常陸の国から秋田に追い出されてしまいますが、その時、茨城の美女を根こそぎ秋田に連れて行ってしまい、おかげで茨城県には、美人がいなくなったといわれています。ということは、今の秋田美人の元祖は茨城美人だということです。
  その後の秋田佐竹藩は、戊辰戦争では政府軍につき、奥州列藩と戦うわけですが、清和源氏の頃から明治まで続いているわけですから、改めて驚かされます。
佐竹氏の後、常陸に入ったのは徳川御三家の水戸藩で、ご存知の2代藩主徳川光圀は隠居後、大日本史を編纂し、その国学の思想は水戸学として発展し、幕末期、長州の吉田松陰、高杉晋作などに影響を与え、明治の革命の原動力になったのは、間違いのない事実です。
 
南北朝時代と天皇の疑問

  北畠親房が常陸の筑波山麓にたつ小田城の板の間で書いたという「神皇正統記」、時代は南北朝時代の内乱期のことです。親房が「神皇正統記」を筑波くんだりで書いたというのも、このとき親房が小田城を拠点にして、南朝のための東国工作に従事していたからです。そのころ南朝の勢力は衰えつつあって、なんとか常陸や下野を傘下におさめようとしていましたが、北朝は足利氏を軸に、南朝切り崩しにかかっていました。
  親房が「神皇正統記」をなぜ陣中で急いで書いたのかというと、これは東国武士に南朝への参加を説得するための分厚い政治パンフレットだったのでした。
  結局は、足利氏が南朝の後醍醐天皇を島流しにして、北朝天皇を擁し、南北朝を統一し、その後幕末の孝明天皇まで北朝天皇が続いたはずです。しかし、明治維新後は、なぜか南朝が正統であったのような議論があり「神皇正統記」や光圀の「大日本史」の説が有力になり、後醍醐天皇の忠臣である、楠正成が皇居前に銅像になったりしています。この辺は、訳のわからないところで、詳しい講義があれば聞きたいと思っています。
  ちなみに、「神皇正統記」の今日伝わる数多くの写本のうち、最も古いのは室町中期のもので、現在國學院大學に所蔵されています

天狗党と彰義隊

  幕末、御一新の時、常陸の国水戸で天狗党が結成され、独自の水戸学の思想をもって、尊皇攘夷の志を京都の孝明天皇にお伝えしようと、筑波山に挙兵し、宇都宮、日光を経由して京に向かいます。しかし、道中あまりにも乱暴、狼藉を働いたため、政府から討伐命令が下り、雪深い加賀の山中で投降し、約400名全員が斬首の刑に処せられ殺されてしまいます。討伐命令を下したのは、時の将軍後見職、一橋慶喜でした。ここでも、茨城県はかつての美人と共に、気骨のある優秀な人材を多数失い、結果的に水戸藩は、御一新の表舞台から消えていきます。それに、かつての部下を処罰した慶喜の胸中はどんなだったのかと思うと複雑なものがあります。
さて、時代は江戸時代の最終節、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、大政復古のクーデターが起こり、江戸開城となります。
新政府軍に江戸開城を推進した勝海舟とは逆に、徹底抗戦を叫ぶ一橋家の家臣を中心に上野彰義隊が結成され、徳川慶喜が上野寛永寺に蟄居するとその護衛に当たるようになります。江戸占領軍である倒幕軍と市中警備役を自認する彰義隊とはたびたび紛争が発生し、事態を憂慮する新政府軍は、大村益次郎を指揮官とし、彰義隊を一掃するための上野攻撃を決定します。
兵器の質で勝る新政府軍は、寛叡寺から不忍池の対岸の本郷に、当時世界最強のアームストロング砲を備え、歩兵、砲兵の共同攻撃を行い、わずか半日で政府軍の勝利に終わりました。その際、政府軍は、上野の山を全て方囲せず、1ヶ所味方の逃げ道を確保したといいます。そのため、彰義隊の生き残りは、そこから逃走したのではないかと思われます。そして、その中の一人に長南平七がいたわけです。


        (江戸薩摩藩邸、西郷隆盛と勝海舟の会談)

上野寛永寺

  江戸開城のとき、上野寛永寺にお住まいだったのが、孝明天皇の弟の「輪王寺宮様」です。江戸城の鬼門に当たる上野の山に「いとやんごとなき」皇族のお一人がお入りになるのは、徳川家康公以来のならわしです。家康の考えは、「いつか西国に逆賊が起こって、京にあらせられる帝を奪ったとき、この上野寛永寺におわす宮門跡を正朝と仰いで乱を鎮める。」つまり、幕末の時代、彰義隊は輪王寺宮をかつぎ、慶喜をお守りする「官軍」として上野戦争を戦ったのです。仮に彰義隊が勝っていたら、京の天皇から「三種の神器」を奪い返し、薩長軍は朝敵となり、徳川幕府は再び官軍として、その後の戊辰戦争を有利に戦ったのでしょうか。その昔、壇ノ浦の戦いで、幼帝安徳天皇と「三種の神器」を奪おうと、源義経が奮戦したことと状況が重なります。
  上野寛永寺は江戸城の鬼門よけとして、三代将軍徳川家光の時代、天海僧正が建立し、京の鬼門よけである比叡山延暦寺を模倣して作られたとされ、上野公園の不忍池は琵琶湖の役割と同じです。
  また、江戸城から上野と同じ鬼門の方向に茨城県水戸があります。天海僧正は「鬼門より世継ぎ(将軍)を迎える時、徳川家は終焉する。」という遺言を残しました。そして、徳川慶喜が15代将軍として迎えられ、ついに徳川幕府は終焉します。権現様の再来といわれる慶喜は、水戸家というより一橋家から迎えられたという考え方もあるでしょうけれど、壮大かつ不思議な因縁を感じます。上野寛永寺は上野戦争の時、大部分が焼失し、明治政府によって規模は縮小されましたが、歴代の徳川将軍のお墓があり、歴史の面影が数多く残っているところです。
寒風沢島と戊辰戦争

  戊辰戦争は、東北、北海道へと舞台が移っていきます。榎本武揚率いる榎本艦隊が慶応4年8月、開陽丸ほか幕府艦隊を率い松島湾に入ってきました。江戸から箱館に向かう途中、台風や政府軍の攻撃で負傷した軍艦の修理のためでした。場所は松島湾浦戸諸島の寒風沢島他4島です。
  当時浦役人を命じられていた寒風沢の長南清八郎は、南部藩などからも応援を頼んで軍艦の修理をしたそうです。清八郎は1600年代、上総から来た長南和泉守から11代目にあたります。
10月に修理が終わるまで、幕府軍は各民家に分泊したそうですが、その中に土方歳三もいました。多分土方歳三は、大鳥圭介とともに宇都宮、日光、会津と転戦し陸軍副長として仙台に入っていますので、ここで合流したのかもしれません。
  寒風沢島を出航する際、榎本武揚はそれ相当の賃金や謝礼を各戸に支払い、艦に引き上げました。
  翌年明治2年3月、榎本幕府軍を追って官軍が入港し、2日間停泊しましたが、浦戸諸島より物資を徴発し、浦戸諸島には鶏までいなくなり、徹底的な経済の打撃を受けたそうです。その際、記録、文献まで持ち去られたといい、ある旧家では今でも獅子頭を門戸より入れない程の凝りようであるといいます。


 
                  開陽丸

長南秀明  国体で優勝         長南賀世子
  埼玉国体の新体操は2004年10月26,27日幸手市民文化体育館で開催されました。
初日は個人演技で、秀明は4種目(スティック、リング、ロープ、クラブ)の中のステイックで出場、9.075点を取り、他の3人も高得点をマークし、一位で2日目の団体戦につなげました。団体演技も大きなミスはなく最高点で優勝を決めました。

 団体の1ヶ月ほと前に、転んで怪我をしてしまい、2週間練習が出来なくて、出場が心配されましたが、無事に出場すると、それまでの試合では必ずしていたミスもなく、埼玉県の優勝に貢献する事が出来て本当に良うこざいました。

 前年の静岡国体では秀明の個人演技のミスもあつて4位でしたから、今回は悲願の優勝でした。
 日本テレビの取材があり、何回かテレビで練習の様子が放映されましてから、長南という名が珍しいせいなのか、何人もの知人から「もしかしたらお宅の息子さんでは?」と電話を頂きました。

 大蔵村出身の長南喜善さん(京都)からは学校へ祝電が届き、皆さん大感激したそうです。2代日全国長南会会長の藤四郎祖父が健在でしたら、とんなに喜んでくれたかと思います。

      (さいたま市)
わが町のヒロイン JOMOサンフラワーズ 長南真由美さん
 JOMOサンフラワーズのルーキー・長南真由美選手は、リバウンドが得意なPF(パワーフォワード)のプレーヤー。学生時代とは生活も一変「バスケットをするには最高の環境」という、南柏の練習施設でバスケットボール中心の生活を送る毎日。
 山形県出身の長南選手は2歳上の兄がミニバスケットボールをやっていたことに影響され、小学5、6年生のころ遊びでプレーを始め、中学校でバスケ部に入部。2年生の終わりにジュニアオールスターに出場したことがきっかけで、山形一中から「全中(全国大会)に行くために来てくれないか」と誘われ、転校を決意。全国2位の立役者となった。
 そして高校卒業後、「学生として日本一になりたい」と専修大学へ進学。3年制のとき関東リーグ初優勝を飾ったのはうれしい思い出の1つ。一方、大学日本一に届かなかったこともあり「それがあるから今も続いているのかな」と長南選手。「伝統あるチームの中でどれだけやれるか、早く試合に出られるようにがんばりたい」と意欲満々。「自分たちもがんばるから皆もがんばって」と、スポーツキッヅに激励メッセージも。
 オフには洋服や雑貨が好きで柏の街へも買い物に出かけるという、元気な22歳。レイの愛称で親しまれている。

 長南真由美 JOMOサンフラワーズ。山形県出身。山形一中、山形商業、専修大卒業。1983年2月20日生まれ。22歳
 
新庄市 長南清、真智子夫妻の長女。山形商高時代に女子アジアジュニアバスケに日本代表になった。

 
第4回松島長南まつり       2005年9月4〜5日瑞巌寺栽松記念碑参拝・寒風沢烏長南和泉守36士展墓
記念碑 懇親会 宿  泊 展  墓
長南 修治 塩竃長南会会長
長南 兼夫 寒風沢長南会会長
長南 正義 寒風沢長南会副会長
長南 富枝 全国長南会寒風沢連絡所
長南 親雄 寒風沢ご先祖墓調査委員
塚原  茂 上総鶴舞藩を知る会事務局長
長南 勘一 塩竃長南会副会長
長南 亀悦
林  武弘
白井ヒサエ
西海  清
西海恵美子
長南 俊春
長南 光男
中村 就−
中村 ひさ

長南まつりに参加して     白井ヒサ工

 松島海岸駅に降りて瑞簾寺に向かつて、足を早めました。
 着いて見ると、長南和泉守が黒松、赤松を植えて松島を創造した記念碑の前にはお花が飾られ、各地の長南さんたちが半円形に立って、式の始まるのを待つています。その背後をぞろぞろと通る観光客に向かって、塩竃長南会の長南修治さんが、記念碑の由緒を語つていましたが、さすが会長さんだなあと思いました。
 改めて記念碑を見上げると、この参道では唯一、黒みかげ石で、多数ある他の記念碑が素朴な井内石であるのに比し、非常にスマートだし、美しいのに心を打たれ、つい手を延ばして松樹の飾り彫りを撫でてしまいました。
 全員でお経をあげてお坊さんが果物を供えられ、続いて読経が始まりました。聞さ覚えのある大恋心陀羅尼です。
 続いては、われわれ参列者全員の読み下し般若心経です。お坊さんだけでなく、参列者もお経を心こめて唱えるのが全国長南会の流儀で、初めての方こそ小声ですが、毎年参加の方ともなると、長南和泉守が寄進した瑞巌寺の杉木立に響けとばかり立派に聞こえました。
 今にも降りだしそうでしたが、この間ばかりは傘も無用でした。感謝です。
 寒風沢の長南兼夫、長南正義両氏が出してくれた船で寺前の岸壁から島へ直行30分、あつという間に兼夫さんの潮陽館前に横付けになりました。

父上のような和泉守様


 島の風光を愛でつつ足を運ぶうちに、元観音の長南墓地です。一昨年、全国長南会の皆様の醸金で改修完成した、長南和泉守36士のお墓が、われわれを歓迎して下さつたのでしようか、雨もあがり、例によつて全員でプリントを見ながら唱える、読み下し般若心経の声は、はるか太平洋をみはるかす此処から、長南和泉守が望郷の念やみがたく望んだ上総国長南庄の方角に吸いこまれていさました。
 それにしても、長南の古いご先祖のお墓石が新しい墓のまわりに、ちらばってころがっているのは心痛む思いですが、今はただ手を合わせるのみでした。
 墓から右手に大まわりで行くと、前浜海水浴場です。遠浅で水も清らかな浜辺で一休み。1960年のチリ津波被害の記念碑に心が痛みました。
 ここで、よそでは見られない貝や長南和泉守が真つ先に植えただろう黒松の松ぽくりを拾いました。
 
しばられたお地歳様

 日和山は、航海のために天気を観測する島の西南の高い崖で、日時計方角石が残つていました。
 あの船乗りさんともう一日一緒にいたい島の娘が、お地蔵さんを網でぐるぐる巻きにして、「明日嵐にしてくれたらほどいてあげます」と頼んだという、しばり地蔵が今も網を巻かれたままなのは、お気の毒でした。
 潮陽館では、テレビの義経がちょうど壇ノ浦でしたから、夕食の後は全員で「もしかしたら長南七郎忠春が出るかしら」と熱心に観賞しましたが...
 一夜明けて、私と妹夫婦は遊覧船で松島めぐりを楽しみました。 (蒲郡市)
第4回・松島長南まつりに参加して        市原市 塚原 茂
 この度、中村先生からのお誘いで念願の松島瑞巌寺栽松記念碑参拝と寒風沢島、長南和泉守及び36士の墓参に参加させていただきました。
 私は長南一族でもない身でありますが、長南氏発祥の地、長南町近くに起居する一人として、この行事がとても意義深く感じ、後に続く人々が先人の遺徳を偲びつつ、毎年詣でておられるとうかがい、目がさめるような気になりました。
 知らなかったとはいえ、日本三景の一つ松島の歴史のなかで、長南氏の活躍を知り、今まで何気なく見とれていた島々の松が、一本一本声なき声を発しているようで、それはカモメの鳴き声にも似て、なぜか耳の奥深く消え入ることなく印象づけられました。
 その昔、長南一族が安房国からここ寒風沢島に渡り、崖を削り岸を埋め立てて港を開いて住み着いたと伝う場所に宿をとるという。松島海岸船着き場に漁船で出迎えて下さったのが長南兼夫全国長南会寒風沢会長と同副会長の長南正義氏であった。水しぶきを上げながら松島湾を縦横に操縦し案内する両人は最早完全にこの地にとけ込んでいた。幾代もの永い年月の努力で当時の苦闘から解放された姿を拝見してなにやらホットする心地をおぼえる間もなく、船着き場に接岸。兼夫氏経営の民宿・潮陽館はすぐ目の前。荷をといて早速松島に黒松を植え一大名勝地となさしめた長南和泉守と36士の基地へと向かった。丘上の改装修復された墓所脇にはこれに携わられた中村就一先生はじめ全国長南会会長・長南俊春氏等関係者のお力で碑が建てられており、これにも手を合わせ下山。

 宿での懇親会後、NHKテレビ大河ドラマの「義経」の八双飛びの場面を固唾をのんで見た翌日、市営汽船で塩竃へ渡り解散。塩竃神社を全国長南会塩竃会長の長南修治氏に案内していただき有意義な旅となりました。
ご注文はメールでお願いします。
    送料込み(円) 概要
書 籍 長南氏の研究 一般20,000 中村就一著 A6 1899頁
会員10,000
土師菅原史記 2,500 長南良一著 古代から道真までの研究 B5 631頁
天神様の美術 3,000 NHK制作 道真1000年記念関係の文献、絵画を収集 A4 340頁
長南年恵の生涯 800 雑誌微笑別冊 A4 208頁(売り切れました)
錦 絵 ひよどり越え 2,000 71×36センチ 江戸末期版画カラー原寸大
一の谷 2,000
壇ノ浦 2,000
蝦夷地渡海 2,000
4枚セット 5,500
先祖書巻物 1本 100,000 予約金、送料込み
2本(1本あたり) 73,000
4本(1本あたり) 57,500
6本(1本あたり) 51,400
※会員とは既に毎年会費を納入している方、今回購入の機会に入会する方の年会費は初年度8,000円、以後は金額自由。

 会員には「全国長南会通信」が配布されるほか、「長南氏のルーツを語る会」等各種行事に参加できます。
ch0330@support.email.ne.jp
おかめひょっとこにぎらっぺ

    鴇たかし・作詞
    岡田佳久・作曲
    鈴木英明・編曲
    長南みず代・唄

忍び愛

    鴇たかし・作詞
    岡田佳久・作曲
    鈴木英明・編曲
    長南みず代・唄

    キングレコード