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全国長南会通信  15号
2003年7月20日  発行 全国長南会
長南年恵を巡る勉強会           第1回報告
と  き :2003/10/26 (年恵 誕生日)午後2時〜4時
ところ :鶴岡市塔和町公民館
参加者 :長南俊春、長南真啓、長南成、長南智恵子、長南由市、長南寿一、長南光洋、佐藤政之助、
        千葉寛容、金野昭博 、中村就一、中村ヒサ
   
司会 成(しげる) 先日年恵の筆跡(唐詩選「夜送趙縦」)の後半分を藤島町の安田源治氏を訪ねて拝見した。これがここにある因縁を聞いたところ、源治の祖母マキの祖母タミは千葉氏の出であり、年恵の父寛信は千葉氏から長南氏に婿入りした関係だとわかった。マキは年恵より年下で、しかも病弱だったから長南年恵の妹のようにしていたという。
俊春 鶴岡市訪問は2回めで、本日は年恵様ゆかりの般若寺と南岳寺を参拝しました。 
中村 長南氏について30年調査して本にまとめたが、長南年恵について特に重点をおいたわけではない。でも丹波氏が長南年恵の伝記映画を作るために全国長南会に協力を求めているのは、チャンスだと思う。
 米国資本が同じ企画をもっているとの噂もあるが、ここでわれわれが勉強する事は、丹波映画への協力もさることながら長南一族の歴史研究にとって有意義ですから、皆さんのカを結集しよう。 
寿一 家臣の給料で「13石2人扶持」等という場合の1人扶持とは、米を1日5合の割合である。日本の歴年から660年を差し引くと西暦の年になります。
由市 2000年8月15日に朝日村で開催された第4回「長南氏のルーツを語る会」で初めて皆さんの仲間入りをしました。平成9年には柏市に住む息子の案内で長南町へも行きました。 
佐藤 さる5月に丹羽哲郎をトークショーに招く過程で年恵の話題がでて、全国長南会の活動もわかりました。私の生家が高畑町で年恵の住所と近く、移った陽光町も目の前です。
 長南年恵という人は、私欲のない人で、ひたすら世のため、他人の為に生きた方です。丹波氏が尊敬しているのはその点です。
 92歳の婦人から聞いた話ですが、彼女の舅が裁判所の看守当時、脚が痛んで困り拘留中のミコ(長南年恵)に相談したら「以前に、猫がいじめられている所を通り掛かったが助けてやらなかったので霊がたたっている」と言われ、救ってもらったそうです。
 地主正範氏100歳が史談会で長南年恵の話をしていた。また、長南年恵が高畑町に移った隣の二階にいた人が、長南年恵の位牌を持つています。 
中村 100歳だと何時どうかなっても不思議でない。明日にでも話を聞いてください。
千葉 長南年恵の母の実家とは、あまり深い付き合いはなかった。
年恵の筆跡(唐詩選「夜送趙縦」)と同じものは、まだ他にもあると開いたので、渡部政三氏の子息に会って聞いたが、父の死後大切にしていた物は全て廃棄したと言った。
真啓 50年間栃木市で働いていた。当時、鶴岡には拝み屋がたくさん居た。市民は長南年恵のことを話したがらない様子がある。
金野 長南里香さん(上田沢の博昭氏の娘、毎日新聞記者)から、この集会のことを聞いて来た。浅野和三郎の本を読み、長南年恵について関心を持ち、結婚を機に鶴岡に来たが、長南年恵のことを聞いても、知らない人が多いのを不思議に思っている。
光洋 明治時代のことだが、「念写」などの超能力について研究していた東大の福来友吉助教授は、大学にふさわしくないとて職を追われた。しかし、山本健造は科学的に研究している。彼は奥さんが霊界の弘法大師の指導を受けたからという。
佐藤 高年齢の人の名簿をつくり調べたい。
真啓 長南年恵は神様と親しく、頻繁に神社へ行ったから、それらの神社へ行き、神主の話や古文書を調べたらどうか。(ここで、キモト・ヨウの念力とか、合気道が話題となったが、内容についてはメモできなかった)
 神霊科学についてはクマモトの著書がある。
佐藤 来世研究会には整形外科の医師も参加している。
 
寿一 雪舟が画家の手を持って、超能力で大作の天の橋立を描いた作品がある。
 庄内風土記に長南年恵の記述がある。
光洋 老人会に長南年恵の話題を持込み、またビラをまいて情報を発掘することも考えるべきだ。仙台市には福来記念会があり、文献を集めている。
    大講義

 鶴岡市の般若寺にある長南年恵の墓には、次のような碑が立っている。

   贈大講義長南年恵刀自墓

これは神式のもので、1907明治40年10月29に死去した時には、長野県木曽御嶽神社から神官が来て般若寺前庭で葬儀が行われたと伝えられている。
 この件で照会したところ、2003年12月31日、奈良市の御嶽教大本庁村鳥管長から電話で次のような回答があった。

1.神官の位には15段階あり、大講義は8番であって、中位のものである。
2.刀自は故人女性につける。仏教の信女や大姉にあたる。
3.御嶽教の信者でつくる講社は全国に1000以上あるが、東北地方には比較的に少ない。
    年恵もいずれかの講社に所属して神官の資格をとったものである。
4.明治時代の古い資料は現存しないので、長南年恵個人の記録はない。

(参考)
1.最初に御嶽神社(長野県木曽郡三岳村黒沢)に照会したが、御嶽教木曽大教殿(長野黒木曽郡王滝村)を紹介して   くれたので、改めて手紙を出したが、返事がなく、催促すると御嶽教大本庁(奈良市大淵町)へ回送したという。

2.般若寺の大講義碑のわきに1988年に仏教の法名「清照院恵室善行大姉」の墓碑が建てられた。施主は柴田裕司・高枝と渡登代子と女性ばかり12名の名が刻んである。

 これらの女性はどんなグループか、長南年恵といかなる緑があるのか、長南 成氏と長南君子さんに、寺や石屋にも照会してもらったがわからない。
我が家に裁松賞状
  松島を創った和泉守が雲居国師から戴いた賞状を原寸大にコピーして、掛軸にした第1次5本は、寒風沢の正義、塩竈の勘一、釜石の良一、大田区の斎藤、京都の喜義の皆様が早速床の間に掛けて和泉守の感激を共にした。

  左から八重樫伊登子、良一、広志と妻栄子。

カメラは故久夫の長南喜久男。
心から感激  家宝とします

  裁松軸は雲居禅師のお人柄が偲ばれる様な深い味わいの筆跡で末代までも大切にしたいと父母共々喜んでおります。

  昨年10月母と、父の故郷山形に行ってきました。こけしの鳴子峡は紅葉で素晴らしい景観でした。最上川ではプロジェクトXで長南一族が風力発電を成功させた地かな...とTV画面を思い出しながらの船下りでした。

  次回は曾祖父が博労だった豊牧を訪れたいと思います。

左父喜義、母京子(埼玉県の弟は和興です。)
長南美保子
裁松掛軸  第2次5本頒布(美麗桐箱入り、送料込み)  16年度志納金納付会員 38,610円
私の家系
仙台〜山形を往復      仙台市 長南 丈夫・和夫

  先祖は庄内の出身だと思う。
 祖父孫市は江戸末期から、山形県との県境「関山峠」を通り、仙台一山形を往復し、明治10年ころに仙台に住み着き、米屋を家業としていたが昭和7年に死去1856〜1932、父が継いで米の配給制度まで営業した。
 孫市の妻、なおは奥羽本線漆山(南陽市)の片桐氏の出と聞いているので調べたい。我が家では水神さんと熊野神社を大事にせよと伝えられている。
 こ参考:寺と家の過去帳、墓碑などを調べ突き合わせて系図を作りましょう。

鉄砲鍛治でした     岩槻市 長南日出男

  祖先は酒田に住んでいましたが、どこから来たか知りません。母の話では、父の祖父は刃物や鉄砲の鍛冶だったそうで、愛宕神社に奉納されているそうです。家紋は丸木瓜紋です。
こ参考:荘内藩に仕えた多助系の長南通明は鉄砲隊長であったし、光寿系の三代光則は鉄砲の名人で、1807年にロシヤ人が松前に現れ、出陣することになった時に、出発に先立って藩で備早打ち(尻を地につけて構えて撃つ)を実演して見せたという。(「長南氏の研究」P.1000)このことと関係があるかもしれない。先ず愛宕神社に行き、実物を調べることから着手したらいかが。当時の鉄砲を所蔵している長南氏がいます。

高砂やの謡で蔵開き  狩川 長南 寿一

  毎年一回、土蔵の大黒柱に餅と酒を上げて、「高砂やこの浦舟に帆を上げて…」と謡曲を歌って蔵開き行事を行なう伝統があります。家宝として信長から秀吉が拝領した鉄瓶型茶釜がありますが、ご希望の長南さんには相談に応じます。

家紋は違い鷹      北見市 長南 昇

 旧籍は山形県東田川郡大和村大字澤新田字錆45番地
こ参考:昔の武器、弓矢の矢羽を得るために山の頂にてニワトリを飼い、狙ってくる鷹を捕らえて羽を取り、税金として納めたから「出羽の国」の名がついた。長南家は元は梅鉢紋だから、いつどんな経緯で違い鷹に変わったか調べると、一族の歴史を知る手がかりになります。
 なお、澤新田の名は立谷澤から来て開いたからこの名が付けられたのです。

家系に誇りと喜び    高橋小夜子

 「長南氏の研究」という本を受取りました。何日かかかりましたが、全部読ませていただきました。改めてわが祖先のあれこれ、そしてこの研究に全力投球なされ、すごい本を出版された方に、大きな拍手をお送りします。 長南という名字に、いささか不思議と興味を感じておりましたが、本当にドラマチックな面白く、立派な家系であることを誇りに思い、とても愉快な気分です。
 私の父の生家は、立谷沢村中村の長南九郎左衛門で、明治28年日清戦争の終わった年に生まれ、名前は戦争に因んで軍治です。今の東京薬科大学を卒業して、余目町に薬局を開店、繁盛致しまして劇場を二つも建てました。しかし今は父の事業の面影はありません。
 人生80年も生きればいろいろ多事多難で、この年になって長南の家系に強い興味を持ちました。この本全部を読んで、本当に大きな幸せのようなものを感じている次第です。
 これからも長南家の皆様といろいろ交流したいと思います。よろしくお願い申し上げます。