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全国長南会通信 14号
2004年1月20日  発行 全国長南会
栽松記念碑除幕式
2003年11月30日 11:00 於 松島瑞巌寺
進行 中村就一
開会合図 長南水軍銅鑼 長南勝彦、長南親雄
全国長南会代表挨拶 斉藤武夫
除幕 長南兼夫、うの、岸田貴子、理菜
祝辞 瑞巌寺代表 桂田文隆
松島町長  内田鉄夫
塩竃市長  佐藤昭
読経
閉会の辞 長南俊春
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和泉守栽松記念碑成る 雲居賞状そのまま
 松島の瑞巌寺境内に、全国長南氏の夢みた記念碑がさる11月30日に除幕された。これで名勝松島が長南和泉守と忠臣36士により成立した史実が世界に明らかになった。手前の杉林も長南和泉守が寄進した。

 伊達政宗の懇望に応じない雲居国師も真山重純の説得によりこの寺に来て中興の祖となった。重純は雲居の弟子となり機輪能転の法名を授けられた。この縁で栽松碑に対にして全国長南会が復元した。

 石は山西省黒御影、高さ9尺幅3尺(272.7× 90.9cm)上に雲居国師の賞状の文字をそのま ま、下には現代語訳文(撰文中村)を刻んだ。中間の左右に松樹を入れた近代的石碑である。 裏に碑の由来と希望寄金著名を刻んだ。

『波光る』     釜石 船本音羽

老松と老杉に声あり瑞巌寺
               遠つ御祖の勲を知る

松島の八十島かけて緑濃き
               松を仰げばただに懐かし

松菁り海また光る寒風沢に
               裁松信士が裔ら集える

長南の裔の男の子ら眉秀で
               おみなの瞳涼しと人云う
全国長南会代表挨拶
 
江戸時代初期に長南和泉守が島々に黒松を植えて松島を創り、これを喜んだ瑞巌寺の雲居国師からいただいた賞状を、そのままの書体で彫ったのがこの記念碑です。
 菅原道真を祖先とする長南一族の歴史は、何人かの人が研究を進める中で、この賞状原本を探して来ましたが、今年5月末、石巻の長南うのさんが363年ぶりに発見してくれました。幸いに瑞巌寺のお許しがあり、今日の除幕式を迎えましたことを皆様と共に喜びたいと存じます。

              2003年11月30日 斎藤 武夫
栽松道本碑除幕及び機輪能轉居士復元祝辞  平成15年11月30日 於瑞巌寺洞窟群邊
 本来ならば住職吉田道彦老師が導師を勤め、又祝辞を述べるべき処でありますが住職所要にて不在につき小納不束か乍ら相勤めさせて頂きます。
祝辞 本日、全国長南会の皆様の働きによりまして吾が瑞巌寺中興仙開山雲居国師が長南和泉守に輿えた栽松道本碑が立派に建立されました事、誠に御芽出度う御座居ます
併せて雲居国師が真山越中重純という忠宗公側近に与えた機輪能帝居士という法名の経緯を記した碑を復元して頂きました事御礼申し上げ万須、
 言うまでもなく、日本三景の一、松島は、松があってこそ 「松島」 な訳です。栽松道本碑にある通り、平安時代以来の松は 「赤松」で長南和泉守の働きによって 「黒松」 が蘭されました。
 その御蔭で不毛の地に人が住める様になり農作物もとれる様になったわけですから長南和泉守の功績は誠に大きく誉められて当然の働きと思われます。
 只、誤解して欲しくないのは、雲居国師のこの文章は、単なる賞状ではない事です。賞状ではなく、和泉守が求めた法名、戒名とも云いますが、和泉守の功績に相応しい法名を授け、尚一層、仏道の精進にと激励した文章であります。
皆様ご承知のように松は年中緑で変らぬ所から常盤木、神木として尊ばれてきました。
 吾が禅の方でも 「松無古今色」 とか「松樹千年翠」 など沢山の言葉がありますが、矢張り春には新芽を出し秋には古い葉を落とします。武拾年来松喰い虫の被害に悩まされています。松があってこそ松島、和泉守が緩まずコツコツと黒松を増植した様に、日々の地道な手入れ、環境の改善に努める事が肝要かと思われ万須、
この栽松碑建立が、松に対する再認識の契機となりますれば幸甚と存じます。
本日は誠におめでとうございました。

現瑞巌小執事
                  桂田文隆 謹誌
栽松記念碑に刻んだ姓名        2003年11月30日 瑞巌寺 113名 全国長南会
 900年代上総国に土着した菅原道真の子滋殖を始祖とする菅原姓長南氏の歴史研究は、1940年代に寒風沢島の土井兼太郎が着手、50年代に釜石市の船本音羽が続き、60年代に釜石市の長南良一及び柏市の中村就一等が充実、発展させた。
 その成果により初代会長長南徳雄の全国長南会が結成され歴史の研究普及に貢献してきた。同会は2003年に寒風沢島に長南和泉守菅原道本と忠臣36士墓を改修、その後石巻市長南うの発見の雲居国師賞状原本によりこの栽松記念碑を石巻市有三浦源蔵商店施工で建立した。その資金は会員の寄金によるが、歴史研究と会運営の功労者並びに発表を申し出た者の氏名をここに掲げる。
                           2003年11月30日
                           全国長南会会長 長南俊春
北海道
 長南  昇
 長南 祐治
 小山内悦子
 長南  勉
 長南 芳明
岩手県
 長南 良一
宮城県
 土井兼太郎
 長南 亀志
 鈴木 都二
 長南 亀悦
 長南 勘一
 長南 丈夫
 長南 儀平
 長南 富枝
 長南 賢造
 長南 賢悟
 長南 浩也
 長南  孝
 長南 修治
 長南 政直
 長南 和夫
 長南富美子
 長南 正義
 長南 正剛
茨城県
 長南 信雄
 長南 一夫
 長南 和久
 長南  茂
 長南 哲夫
 長南  武
 長南 照光
 長南 忠行
 長南 秀則
栃木県
 長南 由雄
埼玉県
 長南藤四郎
 長南  昇
 長南 俊春
 長南 一義
 長南日出男
 長南清三郎
 長南多利男
 長南 新一
 長南キミヨ
 長南 昭男
 長南 宏治
 長南  亘
 長南  勉
 長南 隆夫 
 長南  龍
 長南  翔
 長南 清人
 星川ナミコ
 長南 幸子
 長南 兼夫
 長南 正勝
 長南 正一
 長南 正則
 長南 燈輝
 長南源太郎
 長南 親雄
 長南 京子
 長南 竹雄
山形県
 長南 豊七
 長南  正
 長南 由市
 長南 博昭
 長南 行碓
 長南 吉美
 長南 君子
 長南 忠勝
福島県
 長南  要
 長南 孝幸
 長南 正巳
千葉県
 船本 音羽
 中村 就一
 中村 房江
 中村 ひさ
 菅沼 孝治
 菅沼いづみ
 菅沼まりほ
 菅沼 まな
 林  武弘
 長南 克夫
東京都
 斉藤松太郎
 長南 徳雄
 斉藤 武夫
 斉藤 宏之
 斉藤 勝重
 長南 常男
 長南 義美
 長南 道子
 長南 一樹
 長南 里美
 長南 道夫
 長南十久男
 早坂  保
 長南 仁志
神奈川県
 長南 政義
 長南 安紀
 長南 正道
 岸田 景子
 阿部 辰子
 西海恵美子
静岡県
 長南  守
愛知県
 白井ヒサエ
京都府
 長南 喜善
兵庫県
 長南 賢司
福岡県
 長南 重信
中国上海
 長南 充浩
 長南浩太郎
フランス国
 バスカル・
 マルソリーニ
 中村まりほ
 ゆい・セヴリ
参加者名簿
都道府県 住所 氏名 寒風沢泊 除幕式 クルーズ
宮城県 松島町 長南  親雄 A
山形県 余目町 長南  国雄 @
余目町 長南  洋子 @
余目町 長南  高嶺 @
埼玉県 八潮市 長南  清 @
千葉県 長南町 長南  勝彦 @
長南町 長南  昌子 @
習志野市 林  武弘 A
習志野市 林  幸子 A
柏市 中村  就一 B
柏市 中村  ひさ B
東京都 世田谷区 長南  道夫 @
江東区 長南美栄子 A
神奈川県 相模原市 西海恵美子 A
愛知県 蒲郡市 白井ヒサエ A
小計 15
宮城県 仙台市 長南  孝 @
仙台市 長南  和子 @
仙台市 長南  賢造 @
石巻市 長南  江い A
石巻市 阿部  冬子 A
石巻市 高木  和子 A
石巻市 長南  うの B
茨城県 青宿 長南  武 @
青宿 長南  忠行 @
青宿 長南  清 @
青宿 長南  哲夫 @
青宿 長南  和典 @
青宿 長南  秀則 @
青宿 吉田  豊 @
青宿 軽部  和夫 @
埼玉県 久喜市 長南  俊春 A
千葉県 柏市 菅沼  孝治 B
柏市 菅沼いづみ B
柏市 菅沼まりほ B
柏市 菅沼  まな B
東京都 世田谷区 早坂  保 A
大田区 齊藤  武夫 B
大田区 齊藤  勝重 B
大田区 橋本多美子 B
小計 24
宮城県 寒風沢 長南  正義 @
塩竈市 星川ナミコ A
寒風沢 長南  兼夫 A
利府町 長南  亀悦 A
塩竈市 長南  正勝 A
塩竈市 長南  修治 B
塩竈市 長南  勘一 B
神奈川県 川崎市 長南  政義 A
藤沢市 阿部  辰子 B
横浜市 岸田  真一 B
横浜市 岸田  貴子 B
横浜市 岸田  理菜 B
小計 12
合計 51
マークをクリックすると顔写真が拡大表示されます。(写せなかった方ゴメンナサイ...)
齋藤松太郎賞の新設
                 第1号
長南 良一 殿

 あなたは、長南氏の歴史を菅原道真より以前に遡って研究され、「土師菅原史記」3巻を刊行されました。おかげで長南氏の歴史は1000年以上に亘って解明されました。日本の姓氏は15,000といわれますが、中でも画期的な業績です。長南和泉守栽松記念碑建立の佳き日に深甚なる感謝を捧げます。    2003年11月30日 全国長南会

                       第2号
斎藤 勝重 殿

 あなたは父君斎藤松太郎氏の遺志を継ぎ、長南氏の歴史研究に努力され、特に1964年に寒風沢島において長南和泉守の茎を発見して今回の長南和泉守36士墓改修記念事業の実現に大きく貢献されました。その功績は誠に大きいので長南和泉守栽松記念碑建立の佳き日に深甚なる感謝を捧げます
                2003年11月30日 全国長南会
    
                  第3号
長南 照光 殿

 あなたは20歳で寒風沢の長南和泉守350年祭に参加して以来、青宿長南氏33名に会報配布など日常活動に尽力して居られます。 特に先頃の長南和泉守36士墓改修記念法要には、一族のバスを運転して大挙参加するなど、会の運動に対する功績が大きいので、長南和泉守栽松記念碑建立の佳き日に深甚なる感謝を捧げます。
                  2003年11月30日 全国長南会
  1987年全国長南会主催「長南氏の研究」出版祝賀会。斎藤氏は中村氏の先妻房江棟の伯父で、先祖は寒風沢から彰義隊参加の長南平七であると語り、当時の1万円を贈って長南氏研究の志を励ました。これが中村氏結婚5周年記念で生涯の事業となった。
 今回の長南和泉守36士墓改修と栽松記念碑の二大事業はその仕上げだが、松太郎氏息武夫氏から申出があったので、この賞を新設し諸氏の功労に対し感謝を表す次第です。
            全国長南会会長
             長南俊春
全国長南会にとっても、今年は会の活動に期を画する年となりました。
懸案の長南和泉守と36士の墓碑を改修し、そして松島への栽松記念碑の除幕という先祖の功績を子々孫々に伝承し、且つあまねく世間に先祖の事積を頻彰するという大事業を成し遂げました会長さん、局長さんや斉藤さんをはじめとして、寒風沢や塩釜在住の皆さん、関係当局と種々斬衝された方々、何かと事業遂行にかかわった皆様のご努力本当にご苦労さまでした。一族の一員として厚く厚く感謝申し上げますと共に御礼申し上げます。

 また記念碑建立に合わせて設けられた斉藤松太郎賞小生如き者が選ばれ望外の極みに恐れ入って居ります。何と言っていいのか恥ずかしく、汗顔の念一杯です。その一方で長南姓の先祖にかかわる歴史の一端にこんなこともあったのかと何人かの長南姓の方が頭の中の方隅にでも入れて貰えるかもしれないと思うとうれしくもあり心境です。

 今まで松島観光と言えば瑞巌寺に参り五大堂を観て観光船にのり島巡り、そして水族館を楽しみ観て観光遊覧終わりだったのが、これからは大いに変わってくると思いよす。感無料というところです。栽松記念碑建立の意味は和泉守顕彰に留まらず全国長南一族にとって計り知れないはどの意義があったと考えております。

 栽松記念碑建立を企画実行された方々に心より敬意を表して閣筆します。
 
 平良15年12月14日
                                                                釜石市  長南良一
松島作った房総の武将   平成16年2月号
  松島町の瑞巌寺境内に昨年11月、新しい石碑が建った。「栽松記念石碑」である。全国の長南姓を名乗る家族の集まりである「長南会」(長南俊春会長)が建立したものだ。建立のきっかけは、今から364年前、彼らの祖先・長南和泉守(いずみのかみ)が当時の同寺住職・雲居国師から贈られた「感謝状」の原本が三百数十年ぶりに発見されたこと。和泉守に贈った感謝状で国師は和泉守が松島の島々に黒松を植えたので、美しい景観が出来上がった」と彼の労をねぎらっている。とすると和泉守は名勝松島の功労者となるわけだが、地元松島でも彼の名は「初耳」という人が多い。和泉守と明治初期まで松島を交易の拠点として財を成し、松島の経済的繁栄を築いた、和泉守の末裔となる松島の「長南一族」とは.......

柏市の中村氏、長南氏を研究
  
 「長南氏の研究」という2冊の分厚い本がある。千葉県柏市の中村就一さん(81)が仕事の傍ら33年がかりで、各地の長南姓を名乗る人たちを訪ね歩き、彼らの祖先の足跡を全2000頁にわたってまとめた労作だ。中村さんが妻の故房江さんと結婚5周年の記念として互いの「先祖調べをしよう」ということになり、房江さん方を調べていくうちに、長南一族に出会った。なかでも松島の長南氏の栄枯盛衰はドラマチックで研究に多くの時間を割いた。

 長南和泉守が家臣を連れて房総半島から松島の寒風沢島にやって来たのは、1615年12月のことだった。

 大阪夏の陣に豊臣方として参戦した長南氏は徳川方に追われるところとなり、身を隠すために寒風沢島に逃れてきた。長年住み慣れた地を離れた一行は11人だった。船旅の途中で一人が亡くなり、着いたときには7人に減っていた。

 逃亡先として寒風沢島を選んだのは、伊達政宗を頼ってのことだったという。長南一族は永く房総で「水軍」として活躍していたため、その力を政宗に見込まれ、仙台藩領内の松島に入ることを許されたようだ。

 和泉守は後に海運業に進出して成功するが、政宗は彼らを平時には海運業者として保護し、戦時には水軍の一員として活用しようと考えていた。伊達水軍に長南一族が加わり、そのうちのひとりが政宗からもらった変名を使って水軍の長をした、という史料も残されている。

 和泉守の船と前後して数十人の家臣がやって釆た。彼らは寒風沢島の小さな入江に2隻の大船をつなぎ、一年半ほど船上生活をした。持ってきた刀や鉄砲を手入れし、再び豊臣方が挙兵するのを待ったが、やがてそれはかなわぬ時勢であることを悟って船を降りた。

 寒風沢島に住み始めた和泉守らはやがて島の入江を埋め立て、大船もつなげる港を造成し、船乗りの腕を生かして海運業をはじめる。仙台平野の米を大消費地の江戸へ運ぶ回船問屋「長南屋」を開いたのだった。以来、和泉守の子孫たちはこの地で回船業を発展させ、寒風沢島を交易の拠点にした

瑞巌寺住職訴え黒松植林進める

.和泉守が松島の島々に黒松を植えるようになったのは、海運業が軌道に乗ってしばらくしてからだった。瑞巌寺住職に迎えられた雲居国師が植林運動を提唱、これに応えたものだ。国師が着任した当時、塩釜から瑞巌寺にかけての松島海岸の風景は貧しいものだっ。製塩が盛んだったこの一帯は塩づくりの燃料として海岸の松を片っ端から伐採していた。
 
 また、松島の島々も赤松だけで、それはどの景観ではなかった。

 始めに植えたのは海岸だった。交易の途中の浜松から黒松の種子を持ち帰り、育てて植林した。これを手治めに島々にも目を向け、晩年和泉守は家業を2代目に任せて、自らは1族の老と島々を回って黒松を植えた。

 和泉守は75歳で他界する数年前までこの活動を続け、松島の今日の景観の礎を築いた。国師から感謝状を贈られたのは、彼が60歳のときだった。

 「長南屋」は11代清八郎が破産する明治初期まで続いた。寒風沢港も年々整備拡張され、米ばかりでなく、関東や西国の呉服、雑貨、北海道からの魚介類の輸入港としても発展、年間2、3百の親船が出入りする東北の太平洋岸最大の港湾として栄えたが、長南屋の没落に引きずられるように、やがて寂れる。

郷土史から消滅 長南屋の軌跡

 清八郎の破産は同島の彦和田築港の大事業が、明治政府の方針変更により途中で中止に追い込まれたためだった。清八郎は事業のために、多大な借金をし、その返済のために江戸から塩ザケを仕入れて売ろうと、起死回生を図ったが、途中運搬の船が転覆し万事休すとなった。彼は失意のうち63歳で亡くなり、ひとり娘のあいは食べ物にも因る暮らしのなか35歳で他界した。

 和泉守とその一族の軌跡はこのようなものであるが、今、地元の松島町でも彼らを知る町民はごくわずかである。郷土の歴史を学ぶ小学生の副読本にも彼らの記述はない。和泉守とその一族の業績は、子孫の間で語られるしかなかった。