全国長南会通信 13号 |
2003年11月1日 発行 全国長南会 |
裁松碑除幕式於瑞巌寺 11月30日(日) 11時から約30分 |
11月29日(土)寒風沢 和泉守36士展墓
仙台線、本塩釜駅下車。徒歩15分の観光桟橋から13:00発の市営汽船で寒風沢へ(片道500円)。船着場の潮陽館から展墓を兼ねた島巡り。潮陽館に戻り「長南氏のルーツを語る会」。夕食は折からシーズンの牡蠣など海鮮料理、カラオケなどで懇談会。(宿泊7000円)
翌朝、市営汽船で塩竃へ出て松島海岸下車、瑞巌寺へ徒歩15分。 |
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11月30日(日)松島遊覧特別クルーズ
除幕式の後、12:30松島出港、船内で昼弁当を配り、奥松島嵯峨渓を回り、大高森に上陸し内松島の全景を眺め、塩竃へ。250人乗り豪華船貸切で、30名以上で実行します。お誘い合わせて多数ご参加ください。会費は船賃、弁当、お土産(名産海苔)合わせて5000円 |
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裁松賞状の原本 |
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裁松
それまつにしゆうありそのいろけだしあかくろこのくにさきにめすありて
夫松有雌雄其色蓋赤黒此邦旧有雌
おすなししょうとうざんのとうなんさぶさわのろうおう
無雄松嶋山之東南寒風沢之老翁
ちょうなんいずみのかみかつてそのわかきときおすおたねをたほうにえて
長南和泉守曽其壮時得雄種於他邦
これをふところにしてきたりもってかんがんにうゆいまやりん
懐之來以裁海岸今也隣
とうきんりにうつりまさにはなはだしくはんもしさらんとすたみこれをなずけてくろまつという
嶋近里移将去太繁茂民名之云黒松
わがさんこれあかまつのかいきにしてかのしまはこれくろまつのはっしんなり
吾山是赤松之開基彼嶋是黒松之発軫故
ろうそうこれをしょうよすいずみのかみいちじつよにつきてほうみょうをこうよって
老僧賞誉之和泉守一日就余請法名之仍蹴
さいしょうどうほんとごうせしむすなわちこうそのいんねんをもっていちげうぃのべもってこれのきとなす
裁松道本乃以高祖之因縁述一偈以為之記
すんびょうさいしてにもちきたりりょうしゅふうばいかいがんのはてごそのじょりんざいのかくこうじん
寸描細子手持来両種風培海岸涯五祖鋤兮臨済鑽後人
ひょうぼうすまんねんのえだ
標榜萬年枝
かんえいこうしんちゅうしゅんときにしょうじつぜんかえんそうちゅうげんしょうとううざんじょうはふ
寛永庚辰仲春時正前花園叢中現松嶋山上把不
じゅうけんしゅうんごそうきょう
住軒主雲居卑希庸
(現代語訳文)
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松には赤松と黒松があるが、もともとこの地方には赤松しかなかった。
そこへ寒風沢の長南裁松和泉守が、黒松の種を持ってきて育てて海岸に植え、今では島々にも黒松が茂っている。
こうして寒風沢は黒松の始まりとなった。私はこれをよろこび、和泉守が芳名を希望したので裁松道本とつけ、次の詩を贈った。 |
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種や苗を持ちきたり
赤松黒松を海岸に植えた
昔、中国で臨済禅師が松を植えたことに似て
後の世の人は松島の風景をほめたたえるだろう
1640年2月1日 瑞巌寺住職雲居希庸 |
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栽松賞状の行方 |
牡鹿半島を挟んで西の長南屋(寒鳥沢)と尾形氏(野蒜)、半島つけ根石巻の湊屋長南氏、東の阿部氏(桃生都雄勝町名振)の四氏は、いずれも江戸時代に同じ海運業者として支え合って繁盛したといわれる。
阿部周作とのぶ(尾形氏)の間には、一子重郎兵衛があった。のぶは周作が30歳で早世した時に20代前半であった。
別に寒風沢の長南屋11代清八郎は妻のおいな(石巻須田氏)に先立たれた。そこで世話する人があって、のぶは11代清八郎の後妻となり、あいが生まれた。
当時の寒鳥沢島は長南屋のお陰で非常に繁栄しており、11代清八郎は得意の絶頂にあった。ところが1871明治5年、不慮の海難事故で積荷を失い破産し、島中大騒ぎになったが清八郎は1891年に死去したから、のぶは横浜の阿部重郎兵衛方に身を寄せた。のぶが持参した栽松賞状の軸は、重郎兵衛が瑞巌寺に鑑定を依頼したところ、これは雲居国師の真筆で大変なものだと言って香をたき、僧たちがお経をあげたという。
その後栽松賞状の軸は、重郎兵衛の妻の弟五嶋氏に親戚代表として預けられた。
清八郎借金の保証人になった長南七家族の中には財産を売って返済に当てて東京に出るとか、ラッコ船に身売りして北海に働くとか、悲惨な苦労を続けていた。
あいは、一時寒風沢の親戚、土見氏に身を寄せたというがのぶと一緒かどうか不明である。その頃、あいは長南氏の系図を仙台市福田町に住む11代清八郎の弟勇吉に譲ろうとしたことがある.(「長南氏の研究」P.599)
その後、のぶはあいと共に野蒜の実家の隣に移り住んだが、遺言により、今は寒風沢元観音墓地に眠っている。
のぶとあいについて、横浜、寒風沢および野蒜に住んだ時期につき前後関係が正確には不明である。
のぶの人柄は、ほがらかで、明るい性格といわれ、娘あいも鼻筋が通り、整った容貌で苦境にあっても、時により大声で笑う声が隣の尾形家にも聞こえたという。 |
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重大な発見
以上の記事は、なにげなくインターネットで「長南」を検索していて、全国長南会のホームページを発見し、そこで「栽松賞状発見」の記事を見た、岸田貴子さんとその母阿部辰子さんの電話やお手紙からの内容です。
貴子さんは近世史を専攻し、博物館の学芸員だっただけに、横浜中央図書館に飛んで行き、「長南氏の研究」をコピーして、母の辰子さんに見せたら、この本がぜひ欲しいということで、本サイトにメールを送り、手に入れたというわけです。
中村就一氏が横浜金沢電話局長時代に長南氏の話を聞いた局の女性職員に、本を貸したら「この本は多くの方に読んでもらいたいから」と勧められて、図書館に寄付したものです。
本サイトを見た貴子さんから展開し、重大な発見に結びついたという報告です。
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系図
阿部源左衛門−+
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+−阿部周作−+
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? −−+ +−阿部重郎兵衛−+
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のぶ−−+ +−勝三−+ 岸田真一−+
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ちう −−−+ +−泰三−+
+−理菜
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五嶋氏 せつ−+ +−−−貴子−+
(重郎兵衛の妻の弟) |
辰子−+
長南清八郎−+
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+−−あい
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のぶ−−+ |
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@のぶは尾方家(野蒜)より阿部家(名振)周作に嫁ぐ
A周作とのぶの間に重郎兵衛が生まれる
B周作は30歳で早世、のぶは20代前半であった
C長南屋(寒風沢)11代清八郎は妻おいな(石巻須田家)に先立たれ
世話する人があり、のぶは清八郎の後妻となり、あいが生まれる
D清八郎の破産、死去により、のぶは横浜の重郎兵衛方に身を寄せる
そのときのぶは裁松賞状を持参した
E位牌は長南家といっしょにしてほしいというのぶの遺言により
のぶの没後、重郎兵衛とその息子は、長南家の菩提寺である瑞巌寺に位牌と賞状を
持っていったところ、長南家代々の位牌は驚くほど大きく、また
住職が賞状を見て「これは雲居国師の大変なものだ」と急にお香をたいて
お経を読み始めたという
Fその後栽松賞状の軸は、重郎兵衛の妻の弟五嶋氏に親戚代表として預けられた |
長南年恵勉強会 |
丹波哲郎氏「年恵の映画」製作
長南氏の力借りたい
さる7月21日、丹波哲郎氏は鶴岡市での講演の中で長南年恵に触れ熱をこめて語った。
会の後の懇親会で、氏は長南 成氏(鶴岡市)に、来年内に映画を製作するので、あまり知られていない話を集めるなど、全国長南会の皆様のカを借りたいと語った。
年恵の書、永久保存を
弘法大師が年恵の手を持って書いた書は二枚あり、現在は鶴岡市の千葉氏と藤島町の安田氏が所蔵しているが、先頃発見された栽松賞状の例を見ても、このままではいずれ、所在不明となり、後世の研究者を困らせるからと、さる7月9日、長南真啓氏らが千葉家を訪問して永久保存を考えるよう要望した。
地元に感謝 丹波哲郎さんが講演
(地元の新聞記事より)
俳優の丹波哲郎さんを招待した講習会が7月21日、鶴岡のグランドエル・サンで開かれ、出演した映画「たそがれ清兵衛」や鶴岡市に実在した明治期の霊能者などについて語った。 |
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丹波さんは1922年に東京で生まれ、52年に映画「殺人容疑者」でデビューした。半世紀にわたって、500本の映画に出演。昨年公開された庄内を舞台にした「たそがれ清兵衛」では、主人公の真田広之ふんする井口清兵衝の叔父、藤左衝門役で出演した。また、霊界について深い知識を持ち、明治期の鶴岡の女性霊能書・長南年恵(1868〜1907年)について調べた著書「霊人の証明」もある。
この日のトークの中で丹波さんは、「山田監督とまた仕事をしてみたいと思ったのは皆さんのおかげ」と「たそがれ清兵衛」のロケにおける地元の歓迎に感謝の気持ちを表した。
また、長南年恵について「霊媒士としては一流、二流などというものではない。ランクは付けられない」と激賞。
「14年間飲まず食わずだった。世の中を騒がせたとして逮捕、拘留されたときも八十八日間、飲食いせずトイレにも行かず、最後には警察の方が根をあげ、長南はわずかの水とサツマイモを食べた。人間界と霊界を通じ最高の存在だ」と研究成果を披露した。 |
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9月4日、臨時号外と重複する部分は省略しました。 |