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寒風沢長南家系図 |
長南 良一 |
長南氏の系図(「日本書紀」、「続日本紀」、「長南氏の研究」その他による) |
天穂日命−武夷鳥−(中略)−阿多−+−出雲振根 | (大和朝廷に滅ぼされる) +−飯入根 | (出雲国造、出雲大社宮司の祖) +−甘美韓日狭 | +−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+ | 野見宿禰 |
【野見宿禰】 当麻の蹴遠を破り大和一の相撲取りとなる。 皇族や王族等の死の時の殉死に替えて埴輪の使用を奏上し、その功績で土師の姓を賜ったと伝えられている。 成務天皇には皇子が一人だけだったが、何故かその皇子を野見宿禰の養子としている |
野見宿禰−(養子)−和訶奴気王−−−−−−−−−+ (土師賜姓) (13代成務天皇の皇子) | +−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+ | +−身−猪手−+−(中略)−馬手−百村−(中略)−甥−(中略)−+ (土師宿禰)| | 真敷 | +−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+ | +−豊麻呂−嶋村−(中略)−位−和麻呂−+−(中略)−−−−−−+ | | 土師真妹 | | | +−−高野新笠 | | | | 高野乙継 +−−桓武天皇 | | | 白壁王(光仁天皇)| +−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+ | 古人(土師宿禰改め菅原朝臣) |
【猪手】 蘇我一族三代に仕え、皇族の葬礼に関わり中背大兄皇子を殺害した斑鳩宮事件では蘇我軍の先鋒となり奮戦戦死し、土師連磐村は蘇我軍に加わり物部軍との戦いに軍功を立てる 【馬手】 壬申の乱で天武帝側に加わり奮戦・天智天皇の陵墓造営持続天皇の喪葬造竃副官、文武天皇の喪葬造山陵使となる 【真敷】 壬申の乱で天武天皇側に加わり脊戦軍功をたて大錦上を賜わる 【百村】 首皇太子(聖武天皇)の教育係となる 【甥】 文武天皇の大唐派遣の学問生となり、後に大宝律令制定に加わる 【豊麻呂】 元正天皇の遣信大使となる 【嶋村】 己が蓄財を出して窮弊者を救済し、位一階昇格を授けられる 【位】 弓削逆境政権下で諸陵助となる 【和麻呂】 道鏡の由義宮塔造営に功で位一階昇格授与、廃帝となった淳仁天皇を淡路島に改葬する、諸陣頭助となる |
古人−−菅原道長 | +−−菅原是善−−菅原道真−−+ | | 菅原清公 | +−−−−−−−−−−−−−−−−−+ |
【古人】 桓武天皇の侍読菅原姓初代 土師氏一族等改姓を桓武天皇に上奏し太枝朝臣、秋篠朝臣、菅原朝臣の姓を許される 【菅原清公】 遣唐判官となり入唐する、大学助、尾張介、大学頭、式部少輔、文章博士、式部大輔を歴任、従三位 【菅原是善】 文章博士、東宮学士、大学頭、刑部卿、式部大輪、、参議を歴任、従三位 【菅原道真】 文章博士、渤海国への国書作成 兵部少輔、式部少輔、讃岐守、阿衡事件で大政大臣基経に書を呈す 参議、式部大輔、権大納言、右大将、正三位、右大臣、中宮太夫、従二位 義により太宰府権師に左遷、903年太宰府にて薨去す。 923年本官に復し、太宰府・北野の天満宮宮幣となる 993年正一位左大臣太政大臣追贈される |
菅原道真−+−高視−+−雅規−資忠−孝標−定義−在良−時登 | | | | | 女(更科日記著者) +−寧茂 +−分時−惟熊−宣義−忠貞 +−景行 +−景鑒 +−淳茂−在躬−輔正−為紀−忠貞 +−旧風 +−弘茂 +−兼茂 +−宣茂 +−淑茂 +−滋殖(幼名善智麿)−+ +−阿満 | +−男子 | +−隅麿 | +−衍子 | +−寧子 | +−清子 | +−女子 | +−紅姫 | +−−−−−−−−−−−−−−−+ |
【菅原滋殖】 900年生まれ、3才のとき父道真太宰府に左遷され、以後は母方の伴氏のもとに育ち、後、兄の上総介淑茂に仕え、従五位下、昇殿の身となる。 後、退官して土着、河原郷三途台周辺(現在の千葉県長南町)を開墾、地元の豪族(桓武天皇の流れを引く坂東平氏) の女・麻津廼と結婚し、長南次郎善智麿と称す。 承平2年(932)紀州熊野本宮の分霊を祀り熊野神社を創建、推定60才天徳4年(960年)頃、死去す。 |
菅原滋殖(長南次郎善智麻呂)−−◎−−◎−−◎−長南小次郎滋道−+ | +−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+ | 桓武天皇−葛原親王−高見王−平良文−+ | | | | ◎ | | | | | 平将門 | | +−−−−−◎−−−−◎−−−−−−+ | | | +−千葉常将−千葉常長−+ | | | 常季−−−−−−+ | |(婿入り家督) 長南左衛門尉−−女−−−−◎−−−◎−−−−長南七郎顕基−−−−+ | +−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+ | 長南忠春 |
この頃長南氏と千葉氏は頻繁に縁組みを行い、一時は名実ともに同族の感があった。然し庁南千葉氏滅亡後は長南氏だけが残った この事から長南氏は千葉氏の子孫、さらに千葉氏は平氏を祖とするので、長南氏は平氏の子孫と伝えられているところもある。 【長南小次郎滋道】 千葉県長南町の笠森寺の縁起に「長元(1028年)元年笠森寺の本堂建立に与力す」とあり、又、後一条帝の 亡くなられた皇后の代わりの女性を伴って都に上り、帝から喜ばれたと言う伝説がある。 【長南七郎顕基】 『日本中古治乱記』に源頼朝が犬追物行事をした時、上総介千葉広常の臣長南七郎顕基が犬を射た12名の中のすぐれた弓の名手と して記されている。 |
長南忠春−◎−長南光重−◎−◎−長南孫四郎常行−◎−◎−◎−◎−+ | +−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+ | 長南修理介常春−長南将監氏義−長南主計助−長南次郎−◎−−−−−+ | +−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+ | 長南七郎左衛門−長南内記−寂照院殿−長南和泉守菅原道本 |
【長南忠春】 上総次郎長南忠春は源頼朝の平氏追討に義経に従って従軍、その後義経が頼朝に追われて奥州に逃れた時も数少ない従者の中に忠春の名が見える。義経と共に衣川で討死した。下閉伊郡山田町に忠春の伝説があり、それによると忠春は田老町青沙里で病死と伝えている。忠春の弟忠清は鎌倉幕府の問注所(裁判所)に勤めて現在の長南町給田(菅原氏荘園の跡)に領地があった。 【長南次郎光重】 日連が弾圧を受けて行く所もない時、光重が日連を別荘に招き厚くもてなして日連に帰依し、長立山光重寺の号を受け、一族挙って日連の信徒となり授戒す。 【長南孫四郎常行】 『相州文書』に長南孫四郎常行が鶴岡八幡宮に領地のいくばくかを寄付したという事が記されている。これは6年前八幡宮が火災で焼失し、その復興財源捻出のためと見られる。この当時長南氏は広大な土地を領していた事が判る。 【長南修理介常春】 やがて時代が変わり、鎌倉幕府から足利時代となり、戦国時代と変革していく中に、千葉氏が幡居していた下総以外の上総、安房の国は諸武士の草狩場のように、侵入占拠の対象となった。この中に長南城にいた長南氏もその領土を奪われた一人である。康正2年(1456年)甲斐国守護武田信満の次男武田信長の侵入に敗れた長南修理介常春は、数代にわたり上総の地侍として領有していた長南城を明け渡したのである。この後の長南氏は武田氏の配下となり、やがて安房国の里見氏に属し、長南氏の歴史は大きく変動していくのである。 この頃、時を同じくして銚子の海上城に居住していた別の長南氏も、海上城落城と共に出羽国へ落ちていった。この海上城の長南氏は1300年代には霞が浦以北で土岐氏の家臣となっていて、1479年海上城から落ちて、山形県朝日村の上田沢に住みその子孫が現在も住み着いている。 【長南将監氏義】 良禄3年(1459年)千葉氏に謀反を起こしたとあるが、この頃長南氏は武田氏の配下にあり、千葉氏への反乱と言うことはありえない。史実は不明である。 【長南主計助】 この頃関東地方は、古河公方(足利成氏方)と堀越公方(室町幕府方)に別れて騒乱の時代だったが、主計助は幕府側について古河公方方足利成氏を攻めて軍功があったと伝えている。 【長南次郎道歳】 長南次郎道歳平常秀、789年に創建された長南町の三途台長福寿寺にある千葉県指定文化財となっている木造慈恵大師座像は廷徳2年(1490年)鎌倉の仏師が、城主の長南次郎沙弥道歳平常秀の名により寄進したものと伝えている。その胎内の記録によれば、長南次郎は、長福寿寺の大壇那で、上総中務大輔(文書事務、歴史編纂を司る次官)と言う上総国の役人であった。 【長南七郎左衛門】 永禄七年(1564年)下総国国府台において安房の里見軍と小田原の北条軍が戦ったとき、里見軍の部隊長として大奮戦、一時は大勝利したが、遂には北条軍に敗れ、五千人以上討死し、長南七郎左衝門も討死したと伝えている。七郎左衛門は2000石位の禄高だったらしい。 この頃、徳川家康の家臣酒井忠次に仕えた長南入右衛門者が、酒井の家来として、移封された松代、荘内について行き、荘内藩の給人となり、現在荘内に住む長南の祖となっている。 【長南内記】 群書類従に里見十代の忠義の頃(1600年前後)の里見分限帳に長南内記右筆5000石とあり、内記は真水軍を作り、浜祐筆という職名で、この水軍を掌達した。このことが後の世に、長南和泉守が、船手奉行として活躍する素地となったのだろう。 【寂照院殿玄誉自空一滴康雄居士】 長南町の長福寿寺に「長南殿」という石造の1.6mの高さの四重の塔がある。供養塔らしく、元は五重塔だったという。この塔に、「□照院紅誉□□居士」と「寂照院殿玄誉自空一滴康雄居士」とあり、正徳年間(172〜176年)に長福寿寺の当時の住職が建立したもの。文言からは領主級のもので、しかも長南和泉守が、一族を率いて寒風沢に渡ってから約100年も経過しているのも気にかかる。そして1554年から1586年の32年間というと、どうしても和泉の先代としか考えられない。それに匹敵する貢献があった人物なのだろう。名前も事績も不明である。 |
長南和泉守菅原道本−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+ | |
【長南和泉守菅原道本】 寂照院殿玄誉自空一滴康雄居士の次男として、天正8年(1580年)安房国に生まれた。里見12万2千石の大名で鹿島、安房二宮を領していた里見藩の客将として1万2千石を与えられていた。和泉守は、里見忠義の代になって、船手奉行を勤めている。 しかし1614年、里見藩は徳川江戸幕府の外様大名潰しにより、改易されて、里見忠義は伯曹国に流罪となり、里見藩は滅亡し和泉守等は牢人となる。時に和泉守は35才。和泉守は藩主の家族などを江戸に送ったりして、里見藩改易の残務整理に従い、後大坂夏の陣には、豊臣方に参戦したが敗れて豊臣氏は滅亡し、和泉守は安房国に逃れ、里見藩船手奉行として掌握していた数隻の藩船ををもって徳川幕府の豊臣残党狩りから逃れるために他地方への脱出移住を計画、九月寒風沢に向かって船出したのであると言われている。この船出については、八隻とか、種々の我があるが、改易により接収した幕府側が、容易に藩所有の船舶をいくら船手奉行とはいえ無傷のまま渡す筈がない。この時既に和泉守等は牢人であり、おそらく、幕府の目を掠めて、穏密理に奪取した船と思われるし、船出にしても人目を忍んでの脱出だったのではないか。 「ゴザを帆にした二十人乗の船に11名乗って出帆したが、四名は死亡して7名が到着した」と伝えられている。安房国から寒風沢までは海路で4ケ月もかかっており、到著というよりも辛うじて漂着したというのが実情なのではないか。 又、和泉守は、大坂夏の陣に出向いたが、その到達前に豊臣氏は敗れて、結果的に和泉守の参戦はなかったのではないか。徳川の副将軍といわれた伊達藩が、もし和泉守が豊臣の残党ならば、寒風沢島への移住は勿論土地造成を許す筈がない。こんな事を考えると、和泉守は大坂夏の陣から帰って(船利用)、既に徳川に接収された安房の国に戻る筈はなく、かねて熟知の伊達藩の飛び領地の青宿(茨城県稲敷郡阿見町青宿)に直行し、ここで寒風沢島への具体的な移住計画を練ったのではないか。つまり和泉守は、 常陸国青宿か、寒風沢に向けて、青宿に残留する者、寒風沢に移住する者を振い分け、数派に別けて船出したものと思う。 そして、その歳の12月、和泉等の船は漸く寒風沢島に到着。何れにしろ、和泉守等は、当時人家のなかった寒風沢島と野々島の間こ挟まれたも形に船影を隠すように停泊した。当時寒風沢島は東側の鹿倉村という部落が住民の住んでいた所で、山を越えて反対側の西岸の寒風沢水道に面する所は、小さな浜が点在していて人家は殆んどなかった。海は深く絶好の隠れ場所だったのである。和泉守はここに船を泊め、徳川側の残党狩りに備え、また武士への復帰のために機動性と安全性を、そして臨戦体勢を崩さず船所帯といわれる船上生活を続けたものと思う。 この時和泉は子供一人を同伴している。同伴者の中には夫人は含まれていない。安房国在住中に死亡したか、船旅の中に死亡したか、それとも当てもない脱出にに反対して居残ったのかは分からない。和泉は寒風沢に渡来してから、元長南家家老職の尾崎兵部の娘(秋葉妙菊禅定尼)を後妻にしていて、三人の子供を得ている。これが杢之助、杢右衝門、権四郎である。安房国からの同伴の子供は茂左衛門でこれが和泉の嫡男で、後に石巻に分家させている。嫡男の分家という理由は種々あるだろうが、後妻の子供との関係から、先妻の子供を別居させたのではないか。 |
長南和泉守菅原道本 | 茂左衛門−杢之助−杢右衛門−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+ |−藤太郎 | 喜平次A | | | 喜右衛門B | | | 喜右衛門C | | | 清八郎D | | | 清八郎E | | | 喜平次F | | | 清八郎G | | | 清兵衛H | |−−−−−−−−栄八 | 清八郎I | | |−幸蔵(幸蔵系)+−−吉兵衛−とめ−倉吉−なを | 清八郎J | | | | きの | | あいK(清八郎系1898 12代あいで絶家)| | |
●かくして寒風沢に移住し、船上生活をしていた和泉守は、船の老朽が始まったりして1年四カ月で陸上生活に入る。 和泉守は、定住の地として彦和田からの埋立造成を行い、以後子孫代々の事業として現在の寒風沢島の主要集落地となった彦和田畠中・南の埋立に従事した。十代清八郎が彦和田港の築港造成に入ったが、途中で挫折し、それが結果的に長南和泉の直系の破滅につながった。和泉は寒風沢定住後三年くらいで、船手奉行の経験を生かした回船問屋を営み、「臣下25名に親しく長南の姓を授け、各々をして志す道を取らしめたり。このもの佐竹、最上、上杉の各氏に由縁を求めて四散す」 甲冑は野々島の「大松の下」の松の根元に埋め、その他の武器は纏めて処分したと言うが、実際は大部分は各家で隠匿したという ●和泉は寒風沢港の港湾的な施設を構築し、海運業を大きく営んだ。その収益が寒風沢島の開拓に使われ、その後の寒風沢繁栄の基礎を築いたといわれる。 ●和泉は松島瑞巌寺雲居和尚に帰依し、寛永年間雲居和尚が開山となり、寒風沢に松林庵を創建した。 ●和泉は松島の松の植裁に協力し、黒松の植裁の功績により瑞巌寺の雲居和尚から「裁松道本」の号を賜った。 又、瑞巌寺の境内に和泉の次男杢之助が杉千本、松五百本を寄進したとあり、現在(1980年頃)瑞巌寺の境内にその時に寄進した杉が大木となって四本残っているという。 ●和泉は承応3年(1654年)9月4日75才で永眠松林庵東方の沢囲の丘上に墳墓が建立された。法名は瑞巌寺の雲居国師からあたえられた「裁松道本信士」、そして先になくなった先妻の基も「椅竹妙清信女」の法名で並んで建つ。 久夫の母長南サダは「本家の基には大松三本あり、下に遺物を埋めた」と語っている。和泉の墓は、現在は別の場所(元観音の共同基地)に移されている。 ●昭和四十年(1965年)7月25日、長南和泉守寒風沢渡来350年祭が全国の長南一族多数が参列して寒風沢で行われた |
【茂左衛門】 長南和泉の嫡子、事情により分家、石巻に創家、回船業等を始め湊長南総本家の祖となる。 【杢之助】 (杢之助系:1782以降の系図不明) 長南和泉の次男、和泉のあとを継ぎ、寒風沢長南総本家と言われ、寒風沢にて回船業などを営み、五代勘右衛門まで御蔵米浦役人任拝命(五人扶持)苗字帯刀許される。 【杢右衛門】 和泉の三男、次男杢之助系没落後は寒風沢長南本家と言われる。三代喜右衛門愛宕山寒沢寺に百万遍塔建立。 ●長南家は和泉以来寒風沢島の埋立を行い現在の彦和田、畠中、南地区の埋立造成は長南家の事績である。 |
杢右衛門−権四郎−−−−−−−−−−−−−−−−−−清次郎 なを | −+ | | 権右衛門 | 光岩瑞円信女 六右衛門 | | | | | | 権三郎 | 白翁道雪信士−+ 吉右衛門 | | | | | | | 金助 | 淨春信尼 | 六左衛門 | | −+ 三右衛門 | | 長十郎 とよ−| 三右衛門 | (権四郎系) 佐蔵−およし | | | 吉左衛門 | 松蔵 | | | 六右衛門 | | | | | (清次郎系) | +−−−−−+−−−−−−−−+ | +−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+ | きく−+−久五郎−−−+−かつえ | +−みん | | | | | | | |