長南和泉守(ちょうなんいずみのかみ)の活躍 |
長南和泉守という人は1580年頃に生まれた人ですが、生まれた所やその父母の名はわかりません。ただその父のものらしい寂静院殿(じゃくしょういんでん)という戒名が残っているだけです。
和泉守は善智麿から30代目くらいに当たる人で、正式には長南和泉守菅原道本(すがわらみちもと)という名前です。長南氏が武田氏に征服された時から100年以上になり、長南氏の大部分はこの頃里見氏の分限帳(ぶげんちょう(武士の禄高名簿(ろくだかめいぼ)))に長南源兵衛という人がのっています。 和泉守が家をついだのは、織田信長が本能寺で討たれて、そのあと豊臣秀吉が天下を取り関白となった翌年の1585年です。 4年後の1590年には、秀吉が小田原城をかこんで北条氏を滅ぼしたのですが、これだけの大家が倒れると、味方していた千葉氏も亡び、房総地方の48城が、たちまち落城して徳川家康に降参したというのですから、関東地方の出来事としてはまさに有史以来の大きな事件といえましょう。 千葉氏の軍勢だと思いますが、その中に長南五郎という武士がいて、小田原城を守っていました。長南和泉守は里見氏の家来ですから、小田原城を攻める立場ですが、里見義康(さとみよしやす)は、ぐずぐずしていて小田原にかけつけた頃は戦争は終りに近かったので、秀吉から叱られたといいます。長南五郎と、長南和泉守が面と向かって戦うことがなかったのは幸いでした。ところで、小田原城天守閣にある地図の中に長南五郎の名前を発見したのは修学旅行に行った、当時小学6年生の長南利彦(ちょうなんとしひこ)でした。長南氏の歴史も、こうして多くの人々がふだん気をつけていれば、これからもいろいろな事が発見されるでしょう。(408頁) この年家康は関八州をもらい江戸城に入りました。5年後に秀吉が死にます。 秀吉の家来たちは、これからの新しい実力者としての家康につく者と、あくまで豊臣家の味方としてつくそうという人と2つに分かれましたが、とうとう関ヶ原で2つの勢力がぶつかり合い家康が勝ち、3年後には将軍となり江戸に軍事政権を立て幕府を開きました。 しかし、全国には、豊臣家が再び力を得て豊臣秀頼(とよとみひでより)をもりたてて、秀吉時代の栄光の世に戻したいという勢力が強かったのでこれら新旧勢力の対決は時間の問題でした。 家康は天下に目をくばりつつ、おりをねらっていましたが、京都の方広寺(ほうこうじ)の再建をめぐっていいがかりをつけ、大坂城へ宣戦を布告したのです。ところが2ヶ月もしないでしないで停戦協定を結びます。しかし翌年家康の挑発にのった大坂城が再び立ちあがったのでこれを攻撃するために大坂城を包囲します。1615年大坂夏の陣です。 里見家に仕えて、裏水軍(うらすいぐん)の大将をしていた長南和泉守をはじめ里見の家臣たちは、前年幕府によって主家里見氏が滅ぼされ、家康のやり方に対し大いにうらんでいましたので、豊臣方が家康に攻められると聞き、大坂へかけつけて西軍に加わるものがかなりいましたが、和泉守もその1人でした。しかし、大坂方はあっけなく敗れてしまいました。 和泉守は、もはや房総の地にいられなくなったので一家をまとめ、興津(おきつ)という港から舟で出航し一旦霞ヶ浦の青宿に寄った後、北へ向かって松島湾の最も外側の島の寒風沢(さぶさわ)に着きました。 この島には、すでに里見の家来でここに来ていた人もありひとまず安全でしたが、生活は苦難に満ちたものでした。約30名の大勢で、この小さい島にいつまでもいられないので一族は分かれることになり、東北地方の各地へ落ち延びて行ったのです。 この島に落ちてきたとき和泉守は、男の赤ちゃんをふところに抱いてつれていましたが、この子の母親はすでになくなっていたのです。島の人のお世話になり、となりの野々島(ののしま)との間の海峡に船を浮かべ、船から寒風沢の島へ通い、がけを崩したり谷をうめたりして生活しやすいように工事をして、3年目にやっと上陸してしまのくらしに移りました。 この間も、豊臣家から徳川幕府打倒に立上がるという知らせがあったら、いつでもかけつけられるようにと、かぶと、刀などを使えるようにしていたといいます。 しかし、幕府の力はひましに大きくなり、豊臣家を再び興すことはできないことがはっきりしたので、和泉守は武士をやめて、得意の船を使ってこの地方の物資を江戸へ、江戸からの品物をつんで帰るという海運業を始め、これがうまく当たってやがて生活も楽になりました。 そこで、長男の茂左衛門(もざえもん)を石巻に分家させて同じ廻船問屋をはじめさせましたが、これも時代の波にのり繁盛しました。和泉守のあととりは杢之助(もくのすけ)といいますが、幕府から浦役人(うらやくにん)に任命され、刀をさして寒風沢の港の仕事を監督しました。 1640年には、松島湾にある伊達家(だてけ)と長南家のの菩提寺である瑞巌寺(ずいがんじ)の雲居和尚(うんごおしょう)から賞状をもらいました。賞状はざっと次のような内容です。 松には、赤松と黒松があるが、松島にはもともと赤松ばかりで黒松はなかった。ところが、寒風沢の長南和泉守が浜松地方から黒松の種をもってきて、ここの海岸や島々に植えてくれた。それが大きくなって島々浦々がみごとな風景となった。これは和泉守の大きな功績と言わなければならない。その後和泉守が法名をつけてくれるように希望したので栽松道本とつけてあげた。 すなわち、俳人松尾芭蕉(まつおばしょう)や世の人々が松島を天下の名勝とたたえ、いまも松島が観光名所となっているのは、長南氏の祖先である和泉守がこうして松を植えたことも大きな力となったことはまちがいありません。 |