長南七郎顕基(ちょうなんしちろうあきもと)と犬追物(いぬおいもの)

  源頼朝は平家を倒すために準備をしてきましたが1180年にいよいよに宣戦布告しました。もともと平氏である三浦氏の軍勢を借りて石橋山といういう所で平家の勢力と戦ったのですが、負けて三浦半島の岩穴にかくれたりして逃げ回り、小船で房総半島の先に渡りました。

 

  そして半島を北へ進み、東京湾をぐるりと回る途中で、各地の武士団に家来になるように呼びかけました。この辺りは千葉市をはじめ、その一族で長南にいた庁南氏など大きい力を持つものがいて、しかも昔から源氏びいきでしたから、こんどは頼朝を大将にして勢力をのばそうと野心を持って、たちまち集まってきました。

 

  この年、関東地方は豊作で農民が豊かであったことも幸いして、頼朝が鎌倉へ入った頃は大きな軍団となっていました。

 

  平家を打ち倒そうという、たいへんな志をいだく頼朝は鎌倉で軍勢を整理し、休養をとりましたが、その間にも武術を練習することをおこたりませんした。その練習のひとつ犬追物というものがあります。これは、かこいの中に犬を放し馬に乗った武士がかこいの中に入って犬を弓で入るゲームです。矢の先には丸いボールをつけて、犬にあたってもけがしないようにしてあります。

 

  1181年に鎌倉の由井ノ浜(ゆいのはま)で行われた犬追物のようすを紹介しましょう。参加する人は毎回12人です。

 

             回         犬の数              当たり数

         第1回           7                       6

         第2回           7                       5

         第3回           7                       5

 

第3回の選手に長南七郎顕基という武士がいて、みごと矢を犬に当てました。

 

  見終わった頼朝が帰ろうとして、輿(こし(人がかつぐ乗り物))に乗ってから、ふと思いついて「もう一回見たい。今まで当てた者の中から選んでやってみよ」と命じました。

 

  顕基も選ばれ、12名が第4回目の競技を争いました。このときは犬が10匹放されましたが、 顕基を初め10名が10匹に当てました。頼朝は、すっかり満足して引き上げました。顕基らはまさに百発百中の名人だったことがわかります。

 

  顕基は千葉氏の一門の上総広常(かずさひろつね)の家臣ですから、やはり長南出身です。このあと2年後に広常は誤解を受けて頼朝に殺されてしまいますが、顕基は千葉氏の軍勢の1人として頼朝の天下統一のための平氏との戦いで、その騎射のうでまえを

ぞんぶんに発揮し戦功をたてたのです。

                                                                 (206頁)