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長南和泉守・36士墓改修記念式典 平成15年9月4日 塩竈市寒風沢 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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船で住職をお迎え | 読経 | 青宿長南氏 | 勝彦さんの銅鑼披露 | ||||||||||||
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祖先に導かれての今日の盛儀 全国長南会会長 長南俊春 | |||||||||||||||
本日は来賓をはじめ各地から多くの長南氏の参加を得てここに一族の中興の祖である長南和泉守と、36士墓の改修記念式典を開催することが出来、主催者として大変うれしく思います。 この機会に皆様と共に大いに喜びたいことが3点あります。1つには事務局長を兼務しておられる中村就一氏が「長南氏の研究」を完成させたことです。 中村氏は半生を電電公社に勤務されながら、余暇の全てを投入し、30年間調査研究のため全国を行脚し完成にこぎつけ、出版に当たってはご自分の退職金を投入されました。この間私達は調査に協力したものの、大方は側面から見ている状態にありました。大変なご苦労とご心労があったものと思います。この機械を借りてお礼を申し上げます。 2つには、「長南和泉守と36士墓改修」にこぎつけたことです。一昨年3月寒風沢にて「長南氏のルーツを語る会」開催の折に、参拝した和泉守の墓標は土台が沈んで傾いており、周囲にある子孫の墓が立派なことと見比べて、余りにも見劣りするので、なんとか修復できないかと思いました。中村氏はじめ全国長南会の皆様と相談を重ね、今日ここに完成の式典を迎えることが出来たことです。 しかし私も、まさか2年弱の短期間で実現するとは夢にも思いませんし、お墓だけでなく裁松記念碑と併せての寄金募集でしたが、7月23日現在、126年の方から536万円が寄せられ、目標を突破したことです。 経済不況が続き、また天候不順や頻発する地震で日常生活が脅かされるという状況の中で、ご寄付をされた皆様に、この式典の場から御礼を申し上げる次第です。 3つには裁松賞状が発見されたことです。松島に黒松を植えて瑞巌寺の雲居国師から和泉守に送られた賞状は、不思議な運命をたどって、じつに363年ぶりにさる5月31日、その所在がわかったのです。今日の式典と、さらに年内に予定している裁松記念碑建立に間に合うように、和泉守が計らってくれたかのように姿を現したのです。 最後になりましたが、お祝いを賜りました塩竃市市長、長南町町長をはじめご臨席をいただいた来賓の皆様に一族から深甚なる感謝を申し上げます。 |
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長南町町長からの祝辞 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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本日ここに、長南和泉守・36士墓改修記念式典が、関係者多数の出席をいただく中、盛会に挙行されますことを、心からお喜び申し上げます。 長南氏は、現在の千葉県長生郡長南町に「長南次郎」と称して土着し、一族は紅花を育て武士として鎌倉幕府に仕え、その後、戦国時代にかけて一族は別れて東北地方に移り住んだと聞いております。 中でも、「長南和泉守」は、仙台藩の伊達家を頼り、一族36士とともに現在の塩釜市に移り住み、港を開き、廻船問屋として繁栄され、島々に黒松を植え、現在の「名勝 松島」を創ったと聞き及んでおります。 このような偉大な足跡を残した 長南和泉守と36士の墓を、今回長南氏末裔の方々の大変なご努力により、改装修復をされ、ここに各地から多数の子孫が相集い、改修記念式典が行われますことをうれしく思います。 わが長南町においては、長南の地名は町の名前として残されており、また、山形の「紅花」は、長南から伝わったと聞くのみでありましたが、「全国長南会通信」をいただき、かくも全国に大勢の子孫の方々がおり、活躍されている様子を拝読し大変うれしく思っております。 どうかこれからも一族皆様の硬い結束のもと、それぞれのご繁栄を心からご祈念申し上げますとともに、今回の墓改装修復により「長南和泉守」の偉業が後世に永く伝えられますよう心からお念じ申し上げお祝いの言葉といたします。 平成15年9月4日 千葉県長生郡 長南町町長 藤見 昌弘 |
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前夜祭 | |||||||||||||||||||||||||||||||
参加者 山形県鶴岡市 長南 真啓(マサヒサ) 長南 成(シゲル)庄内会会長 長南智恵子 同夫人 飯野 斎 尺八同好会 香風会 田代 仁行 同上 玉木 睦 同上 長南 君子 長南牛肉店 櫛引町 長南 光(ミツ)民宿知憩軒 立川町 長南 寿一 狩川会 茨城県青宿 長南 照光 ひたち長南会副会長 長南 忠行 つむぎ牛生産者 長南 清 NTT勤務 長南 哲夫 長哲不動産社長 長南 秀則 HP管理人 埼玉県久喜市 長南 俊春 全国長南会会長 八潮市 長南 清 立川出身 千葉県柏市 中村 就一 事務局長 中村 ヒサ 同夫人 宮城県寒風沢 長南 兼夫 寒風沢代表潮陽館 長南 正義 寒風沢代表 |
鶴岡の長南成さんの司会で、長南俊春会長からの挨拶があり、青宿の長南照光さんの乾杯の音頭で始まりました。鶴岡の香風会の皆さんの尺八演奏、尺八の伴奏での歌、民謡の数々。 潮陽館で寒風沢の海の幸と山形のお土産の地酒を満喫して時間の経つのがあっという間でした。 潮陽館の兼夫さんや正義さん、山形、埼玉の皆さんとも親交を深め大変有意義な時間を過ごしました。 |
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鶴岡の成さん | 寒風沢代表潮陽館の兼夫さん | 寒風沢代表 正義さん |
寒風沢民宿「潮陽館」(長南兼夫、昭子)TEL 022-369-2437船着場から左へ50メートル 釣り舟も出します。 |
長南水軍の銅鑼について 船本 音羽 |
醍醐朝の前の右大臣菅原道真の十子滋殖(しげいく)幼名善智麿が、延長二年924上総介に任ぜられた兄の淑茂(よししげ=後に讃岐守=)に随つて上総に来り。曾て菅原氏の荘園が在ったと伝へられている埴生郡給田(おぎゅうた)現在の長南町給田の原野を開拓して長南氏を起した承平二年932より約五百二十余年間、上総国埴生郡長南の庄の主として栄へたが、康正二年1456正月、前の関東管領古河公方(こがくぼう)足利成氏の密命を受けた甲斐源氏武田氏の一門右馬之助信長の率いる甲兵五千が不意に上総国に乱入し、古書に「烈風の如く上杉氏の領土を攻略し・・・」とある如く、瞬く間に上総国を手中にした。 この時長南城主長南氏二十三代修理介常春は、郷土農兵二百余を指揮して防戦したが、力及ばづ遂に武田氏の軍門に降り、被官領主として名のみの対面を保つことを許された。然し旧領主と新しい支配者が同一地域で共存することは不可能であった。 延徳三年1491長南氏二十五代次郎常秀の時、ついに離反して隣国安房の里見氏の下に走ったのである。常秀は前年の延徳二年1490に菩提寺の長南三途台長福寿寺に方十八間の大師堂を建立寄進し、ここに元三大師(がんざんだいし(慈恵大師))の木像を奉置している。この事実はかねてから長南氏が、旧地長南脱出を計画して其の機を窺って居た事を意味するものであろう。 安房に逃れ里見氏に臣随した其の後の長南氏の代々は、謀将的存在として重用され、上総湊を根拠地として兵砧、輸送、後方撹乱等を主務とした安房真水軍の首将として活躍した。 里見氏には、海上戦闘部隊として富津岬を本拠地とした表水軍があり、表裏一体となって安房水軍を編成していたと伝へられているが、真水軍の事績については其の任務の性質上、歴史の表面より深く埋没して未だに謎とされている点が多い。 初代義実以来、房総の雄として知られた十一万石里見氏も、慶長十九年1614十代忠義が幕府の忌避に触れて遂に改易断絶となった。 この時、長南氏三十代和泉守道本は、幕府の収城使が差遣される直前、己が掌握する安房裏水軍の主力、感応丸1500石積、神明丸1200石積、多聞丸1000石積を隠し港(上総興津と伝う)に穏蔽して幕府の接収を免れた。この故あってか和泉守道本が後年、伊達藩の隠し水軍として長南船団を統率するようになってからは、この興津を寄港地とし、薪水を補給するのが例となって、明治のはじめ、長南氏が海運業を廃業するまで、興津と深いつながりがあった。 現在、この勝浦市興津の妙覚寺境内に「仙台船繋船柱」と記念碑が建てられているが、その由来の真実を知る人は余りにも少ない。 上総の隠し港に安房水軍の主力船三捜を隠蔽して時の至るを窺っていた和泉守道本は、主家里見氏の遺臣等と共に豊臣氏の招きに応じて元和元年1615四月、大坂夏の陣に参陣したが大坂方の敗北により徳川方の追捕を受ける身になった。 ここで和泉守は一族一門の者と相計り、かねてから誼を通じてあった伊達政宗の許を得て、仙台湾奥の松島湾に落漂する事になり、同年八月、上捻隠し港より一族近臣六十名余が三隻の船に分乗して海路北上し、松島湾頭の浦戸諸島の主島寒風沢(さぶさわ)島に至り、この港地を埋立拡張して此処に永住と定め、元和五年1619海運業を開始した。 一世の集雄伊達政宗は、終生天下盗りの夢を捨てず、常に水陸の兵備の充実を計って居て、和泉守が海運業開始を契機として隠し水軍を創設し、之を和泉守の手に委ねたのである。 和泉守は海運業長南屋の頭領とし運営に当る他、伊達藩の客分として船山航蔵の名の下に政宗直率の水軍操練の指南役をした。 このため政宗の長男秀宗が伊予宇和島の領主として入部する際、長南水軍より一族の数士が船山姓を名乗ってこれに随い、後の伊予宇和島水軍の育成に当り、その子孫が現在に至っている。 和泉守は持船が三十数隻になった寛永六年1629、長男丈八郎道村を北上川河口の湊に配し之に十八隻の船舶を与えて、湊長南総本家を起させ、次男清八郎道時を松島湾寒風沢島に留めて寒風沢長南総本家となし、東西の長南氏が相扶け合って家運の興隆と、隠し水軍の戦力増強を計ったのである。 この事は伊達薄の秘録「東方隠士夜話」に委しく記述されている。 和泉守の没後も長南氏の海運業は、一方に於ては幕制による「御城米浦役人」(これは全国で十四人しか任命されなかった)として、又は伊達藩の隠し水軍の一面を兼ねながら発展し、「海の十万石」と称される程盛大になり、奥州屈指の大勢力となったが、明治維新に際し、朝敵となった伊達藩の運命に殉じて明治の中期、遂に没落の止むなきに至った。 「銅鑼」は約四百五十年前より、「長南水軍」で使用したものとの口碑があるが、何時どこで造られ、どのような経路で「水軍」の手に入ったかは不明である。一説では伊達隠し水軍時代のものと云われているが、現存の「長南家々譜」やその他の記録にないので之を証明することは不可能であるが、先日、一族の古老達へ銅鑼の件を照会したところ、「あの銅鑼は長南水軍(伊達藩隠し水軍)創設当時から備へ付のものと伝へられて居たもので、明治維新後、長南水軍解散時に、持船各船の装具備品が 一族の水主達に分与されたと云われているから、その銅鑼は親船=指揮船感応丸=のものでしょう」との返事あり。 |
最後になりますが 管理人 |
全国から長南氏の子孫が寒風沢島に集まる。50名ほどのそれぞれの長南氏達。私にはふるさとはないはずなのに、到着するまではなぜかふるさとに帰るような気分でワクワクしながらのドライブだった。そして、潮陽館にて山形や埼玉の長南氏との対面に、なぜか旧友か遠い親類に会ったような錯覚を覚えた。 その昔、房総からこの地へやってきた和泉守と36士はどんな暮らしをしていたのだろうか、戦争のない時代だったであろうから、先祖が力を合わせて農業や漁業をしていたかもしれない。お墓に続く細い坂道から見える田んぼや海を思い浮かべると映画のシーンのように当時の人たちが働いている様子が見えてくるようだ。 寒風沢の人たちと、長南氏の皆さんとの再会を熱望しながら島を後にしました。 この度は、大変貴重な体験をさせていただきありがとうございました。心から感謝申し上げます。 |