初めて埴輪を作った人

今から2200年くらい昔、中国大陸には秦(シン)という国がありました。

 この国では有名な萬里長城(ばんりのちょうじょう)といって高さ6〜9メートル厚さ4.5メートルの城壁を2400キロメートルも作るなど大がかりな工事が行われて、高い文明が栄えたことで知られています。

 また、最近始皇帝のお墓が発掘されたところ、兵士や馬の等身大の人形7000も埋まっていて世界中をおどろかせました。

 これらの人形はねんどで作った焼物で俑(よう)と呼ばれています。俑は皇帝の死後の世界を守るために埋められたものです。

 このころのわが国は弥生時代(やよいじだい)の初めで、中国に比べてずっと文明が遅れていましたから、今から1600年くらい昔でも、身分の高い人が死ぬと、生きているときに仕えていた人々がいっしょに埋められるしきたりでした。

 かねてからこのやり方について考えていた天皇の垂仁(すいにん)は、皇后(こうごう)が死んだときに人々を集めて相談しました。

「これまでは人々が埋められたが、こんどはどうしたらよかろうか。」

集まった人達は答えました。

「むかしからやってきたことを、変えることはよくありません。今までどおりでいいと思います。」

ところが一人だけ賛成しない人がいます。

「野見宿弥(のみすくね)あなたは反対ですか、それではどうしたらいいと考えますか」

垂仁が聞くと野見宿弥は答えました。

「生きている人を埋めるのはかわいそうです。その代わりに人の形をしたもので代用してはどうでしょうか。」

天皇は感心して続けて聞くと

「わたしの郷里ではねんどの焼物がさかんで、人の形の焼物を作るのはたやすいことです」と答えましたので、天皇は宿弥の言うようにしました。

 

このことは秦国の俑と同じことですがわが国では人形は埴輪、つまりねんどの焼物と呼ばれその後はこれがしきたりとなりました。

 宿弥は、中国大陸からの文明をとりいれて栄えていた出雲(いずも)の国を取り上げた占領軍のアメノホヒの子孫ですから、たぶんここで土器を作る技術を学んでいたのです。宿弥はこうして新しい考えを実行にうつした人でしたが力わざにもすぐれ、あるときは天皇の命令でタイマノケハヤという名の男とキックボクシングの試合をして勝ったこともあります。

 埴輪のことがあってから、宿弥は垂仁から土師臣(はじのおみ)つまり土器を作る人と言う名前をもらいました。そして、その後宿弥の子孫は天皇など身分の高い人が死んだときに埴輪を作り、ほうむったりする仕事をしてきました。

 500年ほどたちました。その間にわが国では仏教が入ってきたり、大宝律令(たいほうりつりょう)という法律ができたり、世の中がずいぶん進んできました。土師臣の人たちはそこで次のように天皇にお願いをしました。

「世の中も変わり、お葬式のやり方も昔のようでなくなりました。このへんでわたしたちの名前を変えたいと思います。」

 天皇からお許しが出たので、住んでいた奈良郊外の土地の名前菅原をとり、今後菅原(すがわら)と名乗ることにしました。

 この菅原氏からのちに菅原道真(みちざね)が出て、その子孫が長南氏になったのです。

 
長南氏の研究(108頁)