源平時代の長南氏 |
長南氏は上総介の支配する上総国の長南に、927年から住んでいましたので 上総介に任命された人の多い千葉氏とは親しい間がらで両氏の間では縁組もしばしば行われたようです。千葉体系図を見ると、1074年に千葉常長の常末(つねすえ)という人が、長南左衛門尉(さえもんのじょう)の家へむこ入りして家をついだと書いてあります。
この頃長南氏の若者は、1051年から始まった前九年の役や1083年からの後三年の役にも千葉氏の軍勢に加わって、東北地方の各地で戦いました。
そしてそのあと保元・平治(ほうげんへいじ)の乱とつづいて兵馬が走り回るので世の中がさわがしくなりますが、1167年には平清盛(たいらのきよもり)が天下を統一して太政大臣になります。清盛は関東地方の平家の一部が新天地を求めて伊勢に渡った平家一族の出身です。
平治の乱に敗れた源義朝(みなもとよしとも)の子、頼朝(よりとも)は伊豆半島に送られ、その弟義経(よしつね)は鞍馬寺(くらまでら)にあずけられましたが、やがて寺を逃げ出して関東地方をかくれ歩いて家来を集めました。関東地方には源氏の仲間が多かったので、かなり集まったことでしょう。 長南忠春(ちょうなんただはる)もそのひとりです。
しかし、この地方に長くいるのも危険ですから、義経は1174年には忠春らをつれて、いまの東北本線沿いの奥州街道(おうしゅうかいどう)を北へ、平泉に向かって旅行しました。その途中、いま30世帯ほど長南氏が住む福島市松川町の浅川を通過したのも不思議な縁といえるでしょう。 (208頁)
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