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長南町帰行
  5月23日(日)天気 曇 長南町までのドライブ。西暦1500年まで我が祖先、長南氏が暮らしていたというこの地へ、行くというより帰るという気持ちで「長南町帰行」とした。
  尚、お忙しいところ案内をしていただいた長南勝彦さん、昌子さん夫妻には心から感謝申し上げます。  
 
長南城跡
庁南城跡太鼓森              
                    史跡(町指定) 昭和49年4月1日 指定

長南の町並みから数百メートル隔てた丘陵地内に位置する庁南城は、康正2年(1456)甲斐(山梨県)武田氏の一族である武田信長により修築され、以来天正18年(1590)の落城までの戦国時代約140年間、長南武田氏累世の居城として有名であった。
しかし、その規模、構造などについてはほとんど不明である。寛政5年(1793)矢貫村役人から地頭所にあてた報告書に「古城跡御座候」その他が記され、大手門は古沢方面に在ったもようである。
太鼓森は庁南城西隅の高台にあり、その当方に妙見神社がある。そのむかしここに物見の櫓があり、出陣、家臣への合図に太鼓を打ち鳴らしたと言い伝えられている。名松の松も昭和32年頃枯れ、往年の姿は見られない。
                   平成3年3月
                                                                                                              長南町教育委員会
   

  長南城跡をはじめて訪れた時、「ただの田んぼだ!」というのが第一印象でしたが、案内をしていただいた長南勝彦氏の説明で、姫路城や大阪城などの戦国時代後期のお城のイメージとは違い、四方を尾根に囲まれた平坦地に居城を構えたという、地形をうまく利用した城であったらしい。かつての居城の跡は広々とした田んぼがやや段々に並んでいた。ちなみにここの田んぼは勝彦氏の耕作地である。500年以上前にこの地を離れた長南氏が再び帰り、長南城跡で米を生産しているというロマンを感じる風景である。
  さて、太鼓森に続く坂道を登っていくと鳥居がありそれをくぐると小さな社がある。「妙見尊」の札と、中を覗くと九曜星の紋が見える。「妙見」といえば千葉氏の信仰する神で千葉氏は各地の領地に「妙見尊」を祀ったという。1000年前からここにいた、長南氏は1456年武田氏侵攻までの間には、千葉氏との縁組がしばしば行われていたようなので、恐らくそんな理由でこの社があるのかもしれない。
 
この社のあたりが太鼓森といわれ、出陣の時この高台から太鼓を鳴らして兵を召集したというのであるが、これは長南武田以降であろうか、それ以前はこのあたりはそれほど激しい戦地にはならなかったのではないかと思う。また、太鼓森への入り口の史跡の説明の中にも「武田信長修築」とあるように、長南氏が武田氏に城を明け渡した後、戦闘に都合が良いように「補強」したのではないかと思われる。「鎌倉大草紙」に武田信長が「長南・真里谷の二城を築き」とあるが、武田信長侵攻時は既に長南氏が居城していたに違いない。
 康正2年(1456)武田信長が長南城を攻略した時、長南氏の兵力は郷土、農兵合せて250余と伝えられている。さらに古記、伝説に「この時、長南氏は領民を戦火にさらすを忍びずして、信長と手を結び(和を整え)城を開きて別野に蟄居す」とあるが、5千の武田軍には抗する術なく、無条件降伏して城を開き、武田氏の下に被官領主の形式で臣随して長南の家名の存続を許されたものであろう。これは武田氏の勢力下になってから廷徳2年に上総中務大輔長南次郎常秀の名で、三途台に元三大師の像が寄進されている事実から推して頂けるところである。
 
笠森観音
 
延暦3年(784年)、最澄の開基と伝えられている。大きな岩の上に四面を舞台造りにした日本でも珍しい四方懸造という建て方をした観音堂が有名で、61本もの柱で支えられ、堂の上へは75段の階段を上ることができる。回廊からは房総のいくつもの山々を遠望でき、参道の途中には根本の大穴をくぐると子供を授かるといわれる子受け楠、ひとつの根から3本に分かれた3本杉などが見られる。

  正面に仁王門があり、風神と雷神と左右でにらみをきかせている。そのそばに立つ石塔に「別格大本山笠森寺」とあり、他の寺とは比べられないほど格が上であるらしい。
   長南氏の歴史物語「笠森のシンデレラ」より

1010年ころの天皇後一条は、皇后がなくなったので新しい皇后を広く全国からさがすことにしました。というのは、前の皇后にそっくりよく似た人でなくてはならないと天皇が考えたからです。そこで上総介(次官)は、国中におふれをだして33人の少女を集めました。その中に恩茂里(おもり)という名の乙女がいました。

  上総介は、顔や姿が美しいことはもちろんだが、乙女として一人前の仕事ができなければお后にすすめることはしないという考えから、集まった乙女たちに早乙女のいでたちで田植えのコンテストをすることにしました。

 ならんだ乙女達を見ると、みんな若々しい、きりっとした姿で、頼もしい乙女達でしたが、どうしたわけか恩茂里だけが頭からびしょぬれです。

 おどろいた上総介がそのわけを尋ねたところ、恩茂里は今朝家を出るとき雨がふっていたので、笠もみのも着ていたのですが、ここへ来る途中道ばたの観音様が雨にぬれているのを見て、自分の笠とみのをお着せしたというのです。

 心優しき乙女かな、と感心してよく見れば、顔立ちは上品で、ものごしも優雅です。田植えコンテストの成績もすぐれていました。上総介はためらうこともなく恩茂里を都にすいせんすることにしました。

この乙女を都へ送る役目は、長南庄の長南小次郎(ちょうなんこじろう)ら4人の若武者が命ぜられました。

 無事都に着いた恩茂里は、やがて天皇にお目にかかりました。ひと目見た天皇は、恩茂里がさきの皇后にあまりにもよく似て美しいので、驚き喜んでさっそくお后にして、二人は幸福に暮らしました。

 あるとき天皇が,恩茂里に「欲しいものを言ってごらん、かなえてあげる」といいました。恩茂里は考えていましたがやがて、生まれ故郷のあの観音様にお堂を作ってあげたいといいました。天皇はそのわけを聞き心を打たれてやがて立派なお堂を建ててあげました。これが千葉県長生郡長南町にある笠森観音堂です。この観音堂は大きな岩石の上に四方からやぐらを組んで、その上にお堂をきづいた珍しい建物で、現在たくさんの人々のお参りで毎日にぎやかです。
                                                                              
熊野の清水(ゆやのしみず)
  その昔、弘法大師がこの地に立ち寄った際、水不足で農民が苦労しているのを見て法力で清水を湧き出させたと言われる。恐らく、その頃の僧は大陸などで土木の技術などを学んでいただろうから、水の出そうなところはわかったのかもしれない。(勝彦氏談)
  この日もペットボトルを持って車で来て、湧き水を入れている人達が次から次へとやって来る。その中の一人にどこから来たか聞くと、千葉市だと言う。遠方からもやって来るようだ。
  読み方が「ゆや」なのは、湯治場として栄えたことがあり、湯谷と呼ばれたことかららしい。
雨の日が続いていたせいか訪れた場所はどれも湿気が多くぬかるんでいたが、木々の緑や山々は生き生きと見えた。
 
三途台長福寿寺
長南町帰行の最後に訪ねたところが三途台長福寿寺です。毎年6月に、ここで「長南紅花祭り」が行われる。紅花畑はまだつぼみがついたかどうかの状態で一面緑色だった。是非、花の咲いている時期に来て見たいと思っていたが、今年の6月は何かと行事が多くやむなく1ヶ月前倒しになってしまった。墓地のあたりはちょうど祭りに向けてか工事中だった。

(長南町のサイトより)
  三途台長福寿寺は、およそ1200年の昔、延歴17年(798)に桓武天皇の勅願により、伝教大師により創建された由緒ある寺院です。関東における学問所として、房総内外の寺院子弟の教育にあたり、中世においては西に比叡山、東に三途台(東叡山)と称せられ、房総三国における大本山として末寺308ヶ寺を有した大古刹です。

その縁をもって『三途河頭極楽東門蓮華台上阿弥陀坊太平埜山、本実成院長福寿寺』という日本一長い勅号を賜っています。県指定重要文化財の慈恵大師像が特に有名。上総国第四番観音霊場でもあります。

現在は「研修道場」としても開放され、各種講演会を開催、座禅や写経をする人々もあとを絶たない。
   
ユートピア笠森
 
かなり、大規模な保養施設。風呂や温水プール、宿泊施設など大きな自然の中でのんびりできる施設だ。頂上の展望台に上ると四方の山々が一望でき、なぜか遠い平安、鎌倉時代まで思いを馳せてしまった。

  あいにくの曇り空ではあったが、それが幸いしてか遠くの方がかすんで見え、水墨画のように美しい眺望だった。