924年に上総介(上総国の次官)に任命された菅原淑茂(すがわらよししげ)は、上総国へ向かうときに道真の子の善智麿(ぜんちまろ)という青年をつれていきました。
善智麿はやがて淑茂の役所に勤めて仕事をてつだっていましたが、この土地が好きになり地元の人と結婚して、927年に淑茂が都に帰るときにはついてゆかずに残って、名前も地名をとり長南次郎と改めました。長南次郎は長南の地に一生住むことにしましたので、都で信心していた熊野神社(くまのじんじゃ)をまつり、心のよりどころとしました。この神社は今も長南の町にあります(156頁)
ところで、善智麿が自分の名前とした「長南」のいわれは、長南氏の子孫が誰でも知りたいところでしょう。ここでその説明をします。
善智麿が都から来たころの上総国は、いくつかの郡に分かれていましたが、善智麿が住みついたのは長柄郡(ながらぐん)でした。この郡は南北に細長く、少し曲がったきゅうりのような形だったらしく、人は鍬(くわ)の柄(え)のようだと思ったのでしょう。そして北半分を、長柄郡の北だから長北(ちょうほく)、南半分を長南と呼んで区別したのです。印東(いんとう)、印西(いんざい)とか常北(じょうほく)、常南(じょうなん)とか呼ぶのと同じです。したがって鎌倉時代の本には長北という人も長南という人も両方出ています。「ちょうなん」という読み方が珍しいために、ふしぎがられたり誤解されたりすることがあるようですが、このようないわれを知っていれば、別に変わった名前でもないことがお分かりでしょう。長柄郡はその後埴生郡(埴(はに)すなわち陶器を作るねんどを産する土地)といっしょになり両方から字をとり今は長生郡となっています。(180頁)
そして長生郡の中に人口1万の長南町があります。1987年まで長南町には長南という名前の人はひとりも住んでいませんでしたが、どうしてそうなったのかはあとから説明します。*
いろいろなわけがあって長南を「おさなみ」「ながなみ」「ながみなみ」などと読ませている人もありますが、どれも菅原道真から出た一族なのです。
長南次郎善智麿が上総国へ来てからの大きな出来事は、平将門(たいらのまさかど)が関東地方であばれまわったことです。平という名の一族は790年ころの天皇であった恒武(かんむ)の皇子が平という名をつけてもらって関東地方に住みついたもので、八つの家族に分かれたので坂東八平氏といわれました。その中に平将門が生まれ、茨城県を中心に勢力をひろげ、おじの平国香(たいらのくにか)と戦ったのがきっかけで北関東一帯がさわがしくなりました。しかし房総半島は関東平野の、はずれのほうにつきでているので、どちらかというとこうしたさわがしさからは遠ざかっていたようです。
平将門につづいて平忠常(たいらのただつね)という武士が出て、1027年に今の千葉市の幕張に勢力をのばし「たくさんの葉が茂る木のように、わが一族は栄えてほしいものだ」という願いを込めて、千葉という名前に変えました。そして、その願いのとおりしだいに勢いがさかんになるにつれて、都の藤原氏は不安になり、中常が言うことをきかなくなったのを機会に源頼信(みなもとのよりのぶ)に命じて、忠常をこらしめることにしました。
忠常は頼信が来ると聞き、とてもかなわないと思い降参しましたので捕らえられましたが、都に連れて行かれる途中で病死しました。しかし、それまで頼信のやり方は同じ武士として忠常を大切にして、千葉市をかばったので忠常の一族は頼信の家来になりました。
平家の一門である千葉氏が、のちに平家を倒そうと旗を揚げた源頼朝(みなもとのよりとも)に味方して、全国統一の大事業を成功させた中心の力となったわけは、以上のようないきさつがあったからです。千葉氏はその後1590年に小田原の北条氏とともにほろびるまで、今の千葉県を中心に大きな力をもっていました。
長南氏はその味方として10世紀から15世紀までの500年間この地を離れることなく生活してきたのですが、古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)が関東地方に勢力をひろげた当時、その家来の武田信長(たけだのぶなが)が長南を占領したので1456年から1612年までの間に長南の地を離れ、あちこちにちらばってゆきました。 (284頁)
*一族の長南勝彦、昌子ファミリーが530余年ぶりに先祖の地に還り、現在長南町に長南姓は1世帯あります |