会 員 投 稿




   川島芳子=金璧輝の 虚実を探る

                       菅 原 利 之

世界発2008 「男装の麗人」 川島芳子処刑「替え玉説」 再燃



 08.11.20朝日朝刊10面に、にこのような大見出しで掲載された。内容は清朝の王女がスパイとして中国国民党政権に処刑されて今年で60年。処刑を逃れた芳子と見られる女性に会ったことがあるといった証言が出てきた等々であった。
今頃になって、このような記事を出す必要がなぜあったのか、この記事を書きたくて長年温めて、社に申請していたものが、日の目を見たのか、それにしては研究が一部に留まっているように感じられてならない。掲載の写真も一般に多く発表されている軍服を着て斜めから写している写真だが、世俗にまみれ始めた時期のものであり、理想に燃えて兵を率いていた頃とは顔立ちが異なっているようだ。


 さて“川島芳子”とはどのような人かを紹介して、処刑の虚実は終章近くに読者に判断してもらうことにします。
 1895年4月に日清戦争の講和締結後、清国はロシア、フランス、ドイツによって租借という名の侵略を受けていた。列強の侵略は支配層の中にも守旧派と洋務派という対立を生んだ。守旧派は従来からの支配者層である満州貴族が中心で、洋務派は列強に頼る官僚が中心だった。守旧派は勃興してきた義和団を弾圧するよりこれを利用して列強や洋務派に対抗させようとして、1900年列強に宣戦布告し、北京に侵入した義和団は官軍と共に列強の公使館を攻撃した。英、露、独、仏、米、日、伊、墺の八カ国は連合して、官軍と義和団を破り、八月に北京に入城し、篭城五十五日に及んだ公使館員を救出した。西太后と光緒帝は西安に逃れたが、これに随行していたのが、清王朝八大世襲家の筆頭第十代粛親王だった。このとき日本軍第五師団の通訳 川島浪速は指名されて、説得に赴き、紫禁城を戦禍から守った。北京に戻った粛親王はそこで、川島浪速を知るに至った。この粛親王が後の川島芳子となる顕の父であり、川島浪速は義父となる人物であった。


 義和団の乱の後清朝は川島浪速を登用し治安の維持を託したが、その上部組織としての工部局の大臣には粛親王が任命された。そのときロシアの満州進出の時期が重なり、粛親王は川島浪速を手がかりとして日本への接近を目論んだ。こうしてお互いの野望を秘めて接近した両者は義兄弟の契りを結ぶに至ったが、 公式のものではなかったようだ。
川島浪速は満蒙を独立させロシアの侵略を阻み、粛親王はもちろん清王朝の復辟(王朝復活)という悲願があった。
1911年10月に起こった辛亥革命により清朝が滅亡し、粛親王は日本の軍艦で旅順に向かい、その中に五歳になった顕、後の川島芳子も加わっていた。
満蒙独立を企てる川島浪速は満蒙義勇軍を起こすべくカラチン王を脱出させ蒙古に弾薬を送っていた矢先、当時の日本政府の閣議は、中国の民衆は孫文の革命支持に向かっていて満蒙に事を起こすのはマイナスであると決定し、中止と帰国の命令が出された。清朝復活の夢破れた粛親王は挫折して、日本に帰った川島の元に第十四王女をおくり、川島は養女として芳子を迎え入れた。それすらも王家のしきたりによるものではなく、川島も正式に日本の戸籍登録をしなかった。それが後に芳子が漢奸の罪名で銃殺につながった遠因とも言われている。

は出国に当たって東珍という字(アザナ)を付けられた。
七歳まで王女として育てられた芳子にも父粛親王の死は大きな変化をもたらした。
まず川島の芳子に対する態度が変わった。大正十三年十月、芳子は日本髪を結い、和服を着て記念写真を撮り、その日のうちに頭を五分刈りにしてしまった。年頃の娘が髪を切ると言うことはよほどの思いがあったに違いない。これについて兄の憲立は、川島に執拗に追いまわされているのを泣いて訴えたことがあると語ったとのことである。その後の芳子の男装、言動にもそれが表れているとされている。まもなく養父川島の命により蒙古のカンジュルチャップと政略結婚をさせられたが清国でも日本でも想像すら出来ない大草原の生活は耐えられるわけはなく、三年足らずで離婚した。日本に帰国した芳子には居場所がなく誰からも期待もされず、新天地をもとめて、列強が利権を狙って租界を作り欲望の渦巻く街―上海に再びの夢を求めて海を渡ったのである。
上海で芳子がめぐり合ったのは、田中隆吉(当時少佐後少将)で諜報活動のプロだった。田中の指示でダンスホールに出没し、中国国民党の幹部に接触して情報を探った、この頃芳子も日本の協力で新王朝復活が実現することを信じており、「清王朝王女」の役目を果たそうとしていた。


 1931年9月初旬から日本は満州に理想の国を作るという表向きのスローガンを掲げて、右翼の大川周明や軍部の画策が活発になり、9月18日に奉天郊外、柳条湖に於いて歴史的な侵略戦争が始まった.翌年、その理想の国満州国建国のために担ぎ出されたのがラストエンペラー溥儀であった。川島芳子はこのとき天津にいた溥儀の妻婉容を満州に連れ出す仕事を請け負った。諸外国及び中国人民の反発もますます増大して行き、日本はその目を満州からそらすために上海でわざと事件を起こした。これを画策したのが田中隆吉で、芳子は中国人として中国の利益のために働いていたと信じていたが、日本軍は自国の利益以外は考えておらず、ただ単に利用されただけだった。そうとも知らず彼女は多田大佐(後中将)と言う新しい恋人の元で活躍し得意の絶頂だった。

 1933年 熱河省自警団の総司令に任命され、そのころ金璧輝司令の軍服姿が新聞、雑誌で紹介され、小説「男装の麗人」のヒットにより女スパイ川島芳子を有名にした。
この幸せな時期も長くは続かず、日本軍は芳子を利用しつくしたあげく日本に帰らせてしまった、これは芳子の生活にも問題があり、軍の高官と言えども面倒を見切れなくなったということもあった。だが再び中国にわたった芳子は、天津で料亭(東興楼)を開いたりした。そのころ李香蘭とも接触があり、当時川島が交際していた日本陸軍の情報将校山家亨との仲を同じ姓の満映女優「李明」と間違われ、とんだ迷惑を蒙ったりした。その後右翼の大物や実業家などとも交際があったようだが長続きせず終焉への道を進んで行った


 昭和20年大戦は終わり、スパイ容疑で漢奸として上海で逮捕されて、取調べのために南京の監獄につれてこられた。そのとき蘇州監獄(漢奸専門)から日本人戦犯として収監された日本人でありながら東北の保衛団連荘会の総司令として数々の戦闘の後、官憲から追われる身となって、千山の無量観(道教の総本山)を経て,奉天(瀋陽)新京(長春)で治安活動に従事し、天津と上海で対テロ工作をして成功を収めた「小日向白朗」が漢奸の容疑で収監されていた。川島が取り調べのたびに南京監獄に来、彼女は一番奥の房に入れられるので、行きと帰りに必ず、白朗らの房の前を看守に連れられて通る。かつては評判の美女であり男装の勇士として知られた彼女も、阿片の中毒で,白朗らの眼前を通る時、いつも歯が痛いとかあそこが苦しいとか看守に、向かってぶつぶつとこぼし、駄々をこねていたそうである。当時、その死にはいろいろの奇妙な風聞がまつわった。

 冒頭の朝日新聞にように、処刑は軍の芝居であるとか身代わりの別人だとかいわれた。芳子逮捕のニュースから八ヵ月後南京中央日報に芳子が「軍事機関」から華北高等法院に護送されたことが報じられ、起訴状も掲載されたが、昭和二十二年十月の判決理由と重複するので省略する。彼女は無罪を主張するために、あらゆる手段を講じた.まず年齢を若く偽り、満州事変の時には十六歳であり、事変には関わりえなかった。自分は日本国籍であり漢奸ではありえない、川島浪速も李弁護士に長文の陳情書を提出した、長野県上水内郡信濃尻村 村長 村会議長の嘆願書も提出した。何とか日本籍である公的証明を取り付けようと努力したが、戸籍に記載は無く、これはかなわなかった。李香蘭の名で大陸の注目を集めた山口淑子が、戦後九ヶ月間の軟禁生活を経て昭和二十一年に無事帰国できたのは日本国籍が有ったからだと伝えられているのも影響していたのかも知れない。

 昭和二十二年十月十六日第二回公判が行われ、この日結審となり、二十二日に華北第一監獄で次の通りの死刑の判決を受けた。

 『金璧輝は敵国と通諜し本国に反抗することを画策したため死刑に処する。
          終身公民権を剥奪し、財産は家族の必要経費以外は没収する』

判決理由

① 被告の血統は中国で、日本国籍を自称しているが、粛親王の子である以上当然中国人  である。日本国籍に取得については養父川島浪速が代行したものであり、証拠不十分  である。
② 被告は日本の軍政界の要人と親交があり,十二・八事変(太平洋戦争)勃発の頃。上  海でダンサーを装って軍事機密を探った。
③ 九・一八事変の後は関東軍に参加し,定国軍を組織して多田駿の率いる満州国軍設立  に協力し、満州国の健全なることを主張した。
④ 『男装の麗人』は彼女をモデルにした小説であり、『満蒙建国の黎明』はそれを原作  とする映画である.(註:前後が逆であり、混乱が見られる)
⑤ 七・七事変後被告は溥儀を北京に移居させ満清帝国の回復を命じた(註・根拠不明)  日本に南北の傀儡が組織する政府及び人事の配備を提案した。
⑥ 各方面の調査で被告は國際間で暗躍した人物であることが判明した。

以上の罪状に  より漢奸懲治例第二条第一項第一款により極刑に処する。


 昭和二十三年三月六日,芳子側は正式に再審請求を行っている。
(南京中央日報六日北平発)「金璧輝は死刑判決後弁護士に新証拠を提出させ再審を請求した」
だが再審請求は三月十四日に河北省高等法院で却下された。 芳子の処刑の記事は南京日報は意外に小さく、事実のみを掲載したに留まったが、北京特電二十五日発のAP電によると、「一発の弾丸は遂に川島芳子の運命を決した~反逆通敵罪として死刑の判決を受けた東洋のマタハリ川島芳子の死刑執行は、二十五日中国最高法院北平分院の刑場で執行された。『何か言い残すことはないか』との執行官に対し、芳子は『長年お世話になった川島浪速氏に手紙を出したい』と述べ、立ったまましたためた。係官は再審の要請が却下されたことをつげ、名前を確認してから彼女にひざまずくように命じた。やがて一発の小銃弾が彼女の後頭部に命中、数奇を極めた芳子はここに三十三歳の運命を閉じたのである。(註 四十二歳)係官の言葉によると彼女は貴婦人のように まゆ一つ動かさず死んでいった。                   (読売、昭和二十三年三月二十六日)