青木タカオ「ちょっくら・おん・まい・でいず」

「今日の夜話」過去ログ'10.8月〜'10.11月


「眠りのツボ」
'10.11/30

 ライブが終わってから、かなりの疲労感があったのだが、

 ちゃんと夜は眠った。

 それでも、昨夜は突然の睡魔におそわれ、そのまま倒れるように眠った。

 そして朝まで。ほんとよく眠ったと思う。

 よくタイムマシンの番組のように、時間のひずみから移動するシーンが出てくるが、

 眠りの場合には、それが実際にあるのではないか。

 渦のようになっている時間が。

 その渦の中に入り、実に深く眠った。その渦はかなりの磁力があるようだ。

 それは突然にやって来る。


「ポスター貼りとチケット」'10.11/28

 先日、とある店でカレーを食べていたら、

 芝居のポスターを抱えた二人が入ってきて、入口で「いいですか?」と声を掛けていた。

 もう壁に貼るところのめどをつけているらしく、空いている壁のスペースにさっと貼っていった。

 僕もチラシをお店に置いてもらうときもあるので、そのすばやい行動にすごいなぁと感服していた。

 まず、もうチラシを広げてから店に入ってきたということ。これで「いいですか?」のひと言で済む。

 そしてもう貼る場所も決めてあるというのも、素晴らしい。

 男ひとりではなく、二人組(男女)というのも、いい雰囲気を出していた。

 (ポスター貼りひとつにしても、極めるとこんなにスムースにゆくのだな)と、感心していると、

 すっと、髭の男の人がカウンターのところに来て、

 「一枚ですけど、招待券置いていきます。いつもありがとうごさいます」と、言った。

 素晴らしい。ポスターを貼った店のぶんだけ、新しいお客さんも来るということか。

 それも、初めてのお客さん。もともと行こうと思っていた人は来るわけだから、

 そんなにチケット収入には、影響はないであろう。

 お店の人も芝居好きなお客さんにチケットを渡すことで、いい関係も続くであろう。

 話のねたにもなるし。お店も得するってわけだ。次回も快くOKしてくれるだろう。

 芝居の世界では、当たり前なのかもしれないが。

 ライブのチラシ配りのときは、想像もしなかったことだ。

 物事にはコツがあるのだな。


「テレビを使ったCDRレコーダー」'10.11/26

 友達に音源を渡すとき、今また変な時代に入ってしまった。

 はじまりはカセットテープで問題はなかった。

 そのうちMD(ミニディスク)、が便利で使うようにもなったが、

 今はパソコンを使ってmp3音源をメールで添付したり、CDRに焼いて渡したりすることが多い。

 では、インターネットやパソコンの使える環境にないみんなは、ずっとカセットテープということになってしまうのか、、。

 DVD製作なら、あんなに簡単にレコーダーで出来るのに。

 そうなんだよ。テレビを使って、CDRが作れればいいんだよな。

 DVDレコーダーがこれだけ普及しているのだから、ハードディスク付きのCDRレコーダーだって作れるはず。

 パソコンを使わくても、簡単にCDRを作れれば問題はない。テレビがあるじゃないか。

 日本中世界中の人が簡単にCDRを作れますように。


「ずっこけの日」'10.11/24

 午後三時のリハになんとか間に合うように、電車を乗り換えたのだけれど、

 それは総武線の「中野行き」だった。ああ、あれが「三鷹行き」だったなら、、。

 その日はなんともずっこけの日であった。

 出かけるのが遅くなったのは、手紙を書いていたからだった。

 あせっていたら、ついさっき見ていたギャラリーに出かけるための案内状、それが見つからない。

 そして手紙を、駅に行く途中で出す予定だったのに、忘れてしまった。

 なんとかギャラリーへ行き、なんとか三時に間に合うように帰りの電車を乗り換えて行った。

 そのまま三鷹行きに乗れればばっちりであったのに、そこで来たのが「中野行き」であった。

 これでもう、三時に間に合わないのは決定的だ。中野での乗り換えで、またどれくらい時間がかかることか。

 中野に着いた。反対ホームに三鷹行きが来るのは5分後であったが、三番ホームに出ようとする三鷹行きが見えていた。

 急いで三番ホームに向かってみたが、3秒ほど間に合わなかった。

 高円寺の駅に着いたときはもう三時前になっていて、「5分ほど遅れます」と連絡を入れた。

 急いで部屋にギターを取りに戻って、ギターケースを背中にしょって急いで向かった。

 結局、10分ほど遅れてしまったが、、。

 ギターケースほ開けようとしたら、なんと、、ギターケースのチャックが半分以上開いていた。

 よくまあ、大事なギターが落ちなかったものだ。あぶないあぶない。

 ずっこけもここで終わりかなと思ったが、最後の最後、

 マイクスタンドを片づけているときに、指を挟んでしまった。血豆にならなかったので良かったが、

 血豆になったら、大変であった、、。ずっこけの日。とても疲れた。

 帰りに カツカレーの大盛りを食べて、あとは何もしないで眠った。


「木のまま亭」'10.11/22

 俳諧の人たちはよく、自分の居場所に「〜亭」と名をつけることある。

 僕もここに引越して来たとき、真ん中の部屋に「木のまま亭」と、名をつけた。

 呼び名は「このままてい」 。

 引越し来た当初は今よりも荷物は少なく、真ん中の部屋は丸テーブルがどーんとあるだけだった。

 僕は真ん中の部屋はみんなが来てくれるように、いつもシンプルにしておこうと思った。

 その想いがあって「木のまま亭」と、名をつけた。

 いつまでも、このままにしようと。それから14年。

 ああ、それなのに。

 荷物がかなり増えてしまった。木のまま亭と呼ぶにはほど遠い。

 なんとか、「木のまま亭」を復活させたい。

 どれだけ物をどかしてゆけば、その名前が出てくるのだろう。

 がんばろ。


「ときにはこんなこともある」'10.11/20

 自転車で下町の細い路地を走っていたとき、

 ある家の庭に、石に彫られた彫刻のようなものが一瞬見えた。

 植木にはさまれるようして。なんとも愛らしい表情をした高さ30センチくらいの彫刻。

 ニコッとしたその顔はななめになっていて、体はくしゃとちぢんでいる。どこかの国の小さな妖精のよう。

 自転車で通りすぎるとき一瞬そんなふうに見えたのだけれど、普通の家の庭にそんな彫刻が置いてあるだろうか。

 もしも、それが本当に僕に見えた彫刻であるならば、それは相当に良かった。

 一瞬であっとしても、僕のこころにやわらかくそれは留められた。

 しかしね。まあ、ほぼ90パーセント見間違いであろう。

 庭にビニールでも重ねられていて、そんなふうに見えただけではないかな。そういうことはよくあるからね。

 僕は自転車で戻って、その庭にあるものを確かめてみた。

 (あれ、ほんとにそうだった・・)

 植木にはさまれるように置かれていた、たぶんセメントか石と思われる背の低い彫刻。

 実は、その家のご主人と先日、お話することが出来たばかりであった。

 たぶん芸術家なのであろう。よく見れば、建てられている家も品のよいセンスなっていた。

 あのくらいの作品が造れるならば、家も建てられるのかな。

 一瞬にして、僕らの気持ちをやわらかく出来る作品。0.1秒、通りかかっだけで。


「雨だれのような」'10.11/18

 ベートーベンのピアノソナタのアルバムをいろいろ聴いている。

 さまざまのピアノ弾きのそれぞれのピアノソナタ。

 カチッとしている人もいれば、のびのびとしている人もいる。

 アメリカのピアノ弾きもいれば、ロシアのピアノ弾きも。

 ドイツのピアノ弾きもいれば、南米のピアノ弾きも。

 もちろん日本のピアノ弾きも。

 南米のピアノ弾きのベートーベンのピアノソナタのアルバムをここ数日、聴いているが、

 これがなんとも、じんわりと、良さが伝わってくる。

 カチッとした仕上がりにはなっていなくて、どちらかと言えば、ゆったりとリズムも揺れているようである。

 しかし、そのかすかな揺れが、生き物のように音を伝えてくれるのだ。

 まるで、音のひとつひとつが雨だれのようにも聞こえてくる。

 ひとつの音が鍵盤に落ちたあとの、その後の余韻や、はねあがりや形の変化まで感じられる。

 カクカクっとした形はひとつもない。考えてみれば、自然の生んだものは、真四角のものなどほとんどないだろう。

 (ああ、それが自然なんだなぁ・・)と、思えた瞬間に、そのピアノの演奏が生き物のように聞こえてきた。

 まるで南米のジャングルのような森のざわめきのように、、たっぷりと湿気を含んで。

 雨だれのように音がひとつひとつ自由な形を見せてくれている。


「一日がつながっている」'10.11/16

 昨夜は、いろいろやることがあったのだが、

 ふと目をつぶった9時前には眠ってしまった。

 ふと目がさめたら、12時すぎ。眠ったような眠らなかったような。

 それからいろいろ作業をして、大きな宅配便をふたつ送って、、

 もうすぐ出かける時間。

 徹夜とはまたちがう感覚。徹夜はもうちょっと長く感じられる。

 ほんと一日が続いている感じ。

 まいったなー。これから仕事なのか。眠いような眠くないような。

 微妙な感覚だ。昨日が近い。

 いやだよ、昨日が近いなんて、、。


「携帯音楽プレーヤーを忘れてみると」'10.11/14

 以前より携帯音楽プレーヤーを使っていて、

 外にいるときは、ほとんど付けていることが多い。

 ここ半年は、ほぼベートべンばかり。

 それも同じ楽曲のいろんな演奏者のアルバムが入っている。

 朝に晩に、ほんとよく聴いた。

 仕事が終わってベートーベンが聴かないと、一日でないような気がしてくるほど。

 先日、携帯音楽プレーヤーを忘れてしまったとき、失敗したと思ったが、

 何度も繰り返して、聴いてきた楽曲などは、頭の中で再生できるとわかった。

 ああ、なんて楽しい。

 あれだけ憶えるのが難しいと思ってきた楽曲も、頭の中で再生できている。

 よくここまで来たものだ。

 たぶん、だいたいで憶えているのだろうけれど、携帯プレーヤーで聴いているときと、

 ほぼ同じような音で頭で再生できている。

 世界一軽い、携帯音楽プレーヤーといったところか。

 脳の中にもメモリーはあった。


「水飲み鳥は知っている」'10.11/11

 11月に入って寒い日も続き、机の前の水飲み鳥の反応もかなりにぶくなった。

 夏の間は、あんなに元気に水を飲んでいたのに、今はほんとゆっくりとなり、

 水にくちばしをつけたままで、しばらくそのままの状態になっていることもほとんどだ。

 それでも5分くらいすると、また起きてくる。次にまた水を飲むのは、15分後とか。。

 ずっとコップの水にくちばしを付けているとき、なぜ、起きあがってこないのかとても不思議になる。

 もしかして、バランスがちがっているのかな?

 水飲み鳥の胴体はガラスの管になっていて、その真ん中にプラスチックの足とをつなぐ金具がある。

 それを上下に調整することで、ちょうどいいバランスを持つのだ。まるでヤジロベエのように。

 寒くなって、ずっとコップの水にくちばしを付けていると、その調節がまちがっているのではないかと思ってしまう。

 ほんの1mm動かしたら、すっと顔を上げるのではないのかなと思ってしまう。

 しかし、水飲み鳥はバランスが合っていることを知っている。

 たとえ、5分10分、コップにくちばしを付けていても。

 絶対にバランスはぴったりと合っている。だって、また飲みに来るからね。


「しじみのみそ汁」'10.11/9

 「マルコメ」から出ている六袋の即席みそ汁シリーズを、

 以前より定番として来た。とくに「あさりのみそ汁」。

 「わかめのみそ汁」は、さすがに飲み過ぎている。

 「あさりのみそ汁」を定番にしてから、もう10年以上はたつかな。

 この六袋のみそ汁シリーズには「しじみ」もあることを知り、ここ数ヶ月は定番を「しじみ」にしてみた。

 「あさり」も相当にうまかったけれど、「しじみ」もうまいね。

 味としたら「あさり」より地味ではあるのだけれど、「しじみ」のみそ汁は深さがあるな。

 比べられないものではあるが。。

 僕はいい年齢になって来たので、人生の「しじみ」の季節に入ったのかもしれない。

 小さい頃、よく飲んだし。

 人は太古の昔より、貝の汁を味わい飲んできたと思う。僕も飲む。


「古い機械に救われる」'10.11/7

 古い8mmビデオテープをデジタル化しているが、

 これが実に苦労している。ホントに。

 テープの劣化というせいもあるが、8mmビデオテープ特有の

 「ドロップアウト現象」が、僕の心臓をきゅーんとさせる。

 いろんな原因から、映像が一瞬がパッと飛んでしまうのだ。

 それが起こるときと起こらないときもあり、テープを何回が再生すると、消えることもある。

 そんなやっかいなノイズが、僕をとても今、困らせている。

 僕の家に今、8mmビデオを再生できる機械が8台あるが、

 その中に数年前に中古で買っておいた、とても高いデッキが一台ある。

 色ノイズが少し出るので、買ってからずっと押し入れにしまっていたのたが、

 ためしにダビングで使ってみたら、その「ドロップアウト現象」が、とても少ないということがわかった。

 この際、色ノイズのことは問題にはならない。

 このデッキがなんとかがんばってくれたら、なんとかなるかもしれない。

 がんばれー、もう20年も前の機械ではあるのだが。。


「5分」'10.11/5

 中学三年の夏のアルバイトで、プラスチックBOX 製作の工場に行った。

 終わりはいつも午後4時20分だったか。。

 憶えているのは、最後の5分がとても長かったこと。机の右前に時計を置いてじっと見ていた。

 学校の授業も、ラスト5分が長かったなぁ。

 今は、5分が長いなんてとてもありえない。

 5分なんてあっというまだ。何かしようとしても、まず立ちあがるまで5分はかかる。

 小学校の頃、グラウンドで1000メートル走をやったが、3分半くらいで走ったと憶えている。

 あれも長い3分半だった。

 今は、一時間も、一日も、一週間も、ひと月も、一年も短い。

 どうやったら、また5分が長く感じられるのだろう。

 中三のアルバイトのとき、早くラスト5分がたたないかなと思っていた。

 今はその通りになった。


「じゃらーん、ふっふっふっ。」'10.11/3

 ちょっとまえまで、 なん だか鳴りがもうひとつだった僕のギルドのギターが、

 どういうわけか、抜群の鳴りになっている。これはどうしたことだろう。

 冬眠から覚めたようになった。嬉しい限りだ。

 このギルドF-47('72年製・サイドバックはマホガニー材)は、とても懐かしい響きを出してくれる。

 マーチン・ギブソンのギターも持っているが、どちらも音色の個性があり、

 同じ弾き方をしても、それなりの音になって出てくる。

 もちろん僕のギルドも同じ弾き方をすれば、音色の個性となって、それなりの音にはなるのだが、

 ある特定の弾き方をすると、なんだが独特な響きを出すのがわかった。

 たとえて言えば、空気の張りの少し弱い風船を軽く叩くと、ぶおーんという震えの響きと出るのと似ている。

 この音は、マーチンにもギブソンにも出せないな。ギルド独特なものだ。

 この響きを出すには、ある弾き方をしないと出ない。ある部分で弾かないとうまく出てこない。

 ピッキングの力の入れ具合も微妙だ。

 この独特の響きを出しながら、ひとつの楽曲を弾こうと思うのなら、

 ギターの弾き方を意識的に作りなおさねばならない。

 うまく弾けば、必ずその響きは聞き手に伝わる。

 (なんか、不思議な音がするね・・)と、きっとわかる。小学生でも大人でも。

 それは、茶碗とか鍋とか箱とかの、ある部分を叩くと良い音が響くのを見つけるのと同じだ。

 (あっ、なんかいい音だね)と、誰でもがわかる。

 このギルドF-47から出てくる独特の響きを、ほとんどのギター弾きは知らない。

 じゃらーん、ふっふっふっ。


「8mmビデオとたたかっている」'10.11/1

 20年まえからのライブビデオをデジタル化しているが、

 8mmビデオの時代に入った。これが実にダビングに苦労している。

 考えてみれば15年ほどたっているので、古いといえば古い。

 テープによっては大丈夫なものもあるので、メーカーにもよるのかもしれない。

 何度か再生すると、ときおり出るノイズがなくなってゆくのだが、

 それでも思い出したように、ノイズがパッと入る。

 どんなにグッドなテイクの演奏でも、ノイズが入ってしまうととても哀しい。

 ノイズが出るたびに、心臓に悪い。

 映像を観ながら、ノイズが出ないように祈る。

 ひとライブまるまるノイズが出ないときは、奇蹟であると自分で思う。

 だって、次に再生したときは、パーフェクトでない場合が多いのだ。

 ノイズが出るか出ないかは、なんだか歌っている本人のパワーと作品力によるような気もしてくる。

 そんなことはありえないのだが。。

 先日、ひとライブまるまるノイズなしで再生できたのだが、ダビングボタンを押し忘れてしまった。

 奇蹟を録画し忘れてしまった。その後、何度も録画したがノイズが出てしまった。

 今、8mmビデオとたたかっている。機械の方もがんばっている。テープ自身もがんばっている。

 ノイズなしで、ひとライブダビング出来たときは言葉では表現できないほど嬉しい。


「書き直した言葉のすべてが失敗している」'10.10/30

 15年前の自分のライブビデオを観ていたら、

 書き直す前、作った頃のオリジナルを歌っていた。

 結局、書き直した歌は、うまくいかなくてボツにしてしまったのだが、

 今、こうして聞いてみると、作った頃の歌詞の方が実に自然だ。

 自分の目線で書いていてね。歌の対象は大きいのだけれど。

 みんなも歌える、もっと大きな歌にしようとして、失敗したのがわかる。

 書き直したフレーズフレーズの歌詞が、格好いい言葉になっていた。

 書き直した頃は、その方がいいと思ったのだろうが、

 歌が大きくなりすぎてしまった。

 良かれと思って書き直したのだけれど、バランスくずれてしまった。

 書き直した言葉ひとつひとつ、書き直す前の方が自然だ。

 普段着だ。

 書き直した言葉のすべてが、おしゃれな服だ。

 僕はカバンに持ってきた服を、ショーウインドーに入れてしまった。

 そこが失敗だった。

 服は生きていないといけない。言葉は生きていないといけない。

 書き直した言葉のすべてが失敗している。


「ベートーベンの響きあり」'10.10/28

 この半年ほど、ずっとベートーベンばかり聞いている。

 最近は弦楽四重奏にはまっていて、それだけでアルバム8枚分ほどあるので、まだまだ楽しめるようだ。

 どの楽曲も駄作というものがなく、最後まできちんと作品として仕上げてあるのがすごいと思う。

 僕なんて、作ってもボツ作品になることも多い。

 ベートーベンの創作への集中力とパワーは、想像を超える物があるのではないか。

 ・・・・・・・・・・・

 あまりに毎日、ベートーベンばかり聞いていたら、あの現象が自分の中に起きてくるようになった。

 誰のことを想っても、なんだかそこにベートーベンの響きがあるように感じられるのだ。

 あの人のことを想っても、この人のことを想っても、あの土地のことを想っても、あの時のことを想っても、、。

 たぶんベートーベンだったら、すごい集中力とパワーで、それぞれひとつの楽曲に仕上げるのではないか。

 楽曲に仕上げるにはもう充分すぎる出来事や想いがそこにある。

 ・・・・・・・・・・

 そのメロディーは、はっきりとは聞こえては来ない。

 なんとなくベートーベンがまじめな顔で、指揮を振っている姿が重なるだけだ。

 交響曲のように。大きな大きな歌のように。


「想い出の響き」'10.10/26

 思い出してみれば、過ぎ去った時は、みんな良かったなぁと、ふと思いがちだ。

 そんな想い出をメロディーでとらえるとき、ロマン風で優雅なメロディーをつける人もいる。

 もう戻ってこない、素晴らしき日々。そんな響きを出してくれるなんて、どう聞いていいのか迷ってしまう。

 たとえば、そこにバッタがいる。想い出の野原で、想い出のバッタが飛ぶ。夕暮れのようなパタパタという音をさせて。

 そのバッタを歌おうと思うなら、飛び上がる生きてる力を、そこに再現して欲しい。

 ふと、振り返ると、過ぎ去った時は、なんだかロマンみたいな響きがくっついている。

 でも、その当時は、そうであったか。。ちがうよね、ちがうちがう。


「新品のギターの帰り道」'10.10/24

 先日、ライブを観ていたら、ほぼ新品のギターを弾いている若者がいた。

 まるで、それは楽器屋さんから、そのままライブハウスに来たようであった。

 ギターは、楽器屋さんを出てそのままギターケースに入り、部屋へ、

 部屋から、ライブハウスに来たようであった。

 なんだか、新品そうなそのギターからは、草の匂いや、

 太陽の日差しのようなものは感じられなかった。

 ギターは楽器屋さんを出たなら、もう自由な身であるだろう。

 帰り道には、どこへ行ってもいいのだ。待っている野生。

 野生というのはおおげさかもしれないが、子供たちの生活のようであっていいだろう。

 ギター自身から、そんないろんな匂いが感じられるのがいい。

 大事な楽器なので、大事に使うというのもわかる。

 でも、なんだかまだ楽器屋のままというのは、ちょっとさびしい。

 帰り道には、もう自由なのだから。


「あの集中力があれば、、」'10.10/22

 日暮れの時間が早くると、

 僕の外仕事は、常に時間に追われる。

 朝の8時すぎから夕方の5時まで、

 それは大変な集中力で、自分でもびっくりする。

 この持続的な集中力があれば、いくらでも創作も出来るのではないかと思うけれど、

 休みのときに創作にとりかかると、30分ほどで疲れてしまう。

 仕事中の集中力が出てこないのだ。

 部屋の片付けも、30分が限界だ。

 どうしてだろう?

 自分でも不思議だ。

 きっと仕事で使ってしまうのだな。


「2011年手帳の奇蹟」'10.10/20

 そろそろ来年の手帳を買う季節になった。

 もう20年ほど同じ手帳を使っているので、今年も同じものを買おうと思ったら、

 僕の使っている緑色のものがない。黒色ばかりだ。

 (これはもしかしたら、、黒だけになったのかな・・)

 たぶん緑色なんて、そんな売れないだろうから、今年からカットされたのかもしれない。

 でも20年間、緑色を使っているので、来年も緑を使いたい。それが普通であろう。

 手帳を出している会社のホームページを見てみたら、やっぱり黒しか出ていなかった。

 だめか・・。

 しかし、昨年も一昨年もそう思ったことを思い出した。

 その手帳は、ほとんどの店で黒しか置いていないのだけれど、ある同じ店にゆくと、

 いつも緑色が置いてあったのだ。ほんの数軒の店に、緑色があった。

 そこで20年ほど緑色を買ってこれた。

 もしかしたら、今年も売っているかもしれない。同じ店だけに、今年も。

 そういうことってあるんじゃないかな。手帳のこころっていうのかな。

 明日、寄ってこようと思う。あったら奇蹟に近いのだが。

 ・・・・・

 そして、、奇蹟は起きなかった。。


「船長さん」'10.10/18

 都心から少し離れたところの大きめの温泉に行った。

 昔ながらの温泉というわけではなく、いろんなタイプのお風呂があるところだ。

 ファミリーで来ている人たちも多い。

 いろんなお風呂がある中で、釜風呂がみっつ並んでいた。

 釜風呂というか、イメージ的には大きな桶のようなお風呂である。

 ひとりのお父さんがゆったりと入る。

 その釜風呂のそばで、ひとりの女の子が、こう言っていた。

 「船長さん、ねえ、船長さん!!」

 子供には、釜風呂が船のように見えたのであろう。

 この声は、露店風呂じゅうによく響いた。

 「船長さん、ねえ船長さんたら!!」。お父さんは困ったようすだ。

 考えてみれば、湯船と言うくらいだから「船長さん」というのも合っているとも言える。

 考えてみれば、湯船のみんなは船長さんであるわけだ。

 「船長さん」は大変だ。その船の最高責任者である。

 しかし、自分がそう呼ばれてみるのも人生にとっては良いことだろう。

 お父さんではなくて、船長さん。アパート、2号室の船長さん。

 玄関では、こう声が聞こえる。

 「船長さんはいらっしゃいますか?」


「あーあ、液晶画面」'10.10/16

 ノートパソコンの液晶画面が壊れた。

 液晶画面の交換は、かなり修理代金がかかるのは知っているので、

 安めのモニター画面を昨日買って来た。もう壊れたものはしかたがない。

 ・・・・・・・・・

 それはほんの小さな出来事。

 かなり寝不足だったので、ふーう、疲れたとメガネをとって、

 横になっていたら、ノートパソコンの電源が付いたままだった。

 何げなしに、ふたをしめたら、何かがつかえていた。また開けてみれば、

 それは外したメガネだったというわけです。

 出来事というのは、たったこれだけ。

 それで、液晶画面が壊れた。ほんとにあっけない。

 横になるときメガネをいつも外すが、いつも顔のあった前に置くのが常になっている。

 キーボードの上に置いたのは、またすぐ起きようと思ったからだ。

 そして本格的に眠ってしまった。起きたときはメガネをしていないのだから、

 キーボードの上にあるメガネなんて見えない。頭もぼーとしているし。

 ・・・・・・・・・

 ノートパソコンのキーボードと液晶画面の間に、何かがあり、

 それでふたをしめたなら、もう液晶画面はだめになってしまう。

 キーボードの上に、何かあることも、長い間にはあるんじゃないか。

 お菓子とか、サイコロとか、ボールペンのキャップとか、ぺートボトルのふたとか、

 ギターのカポタストとか。。

 ノートパソコンの進化には素晴らしいものがある。

 しかし、やっぱり、これはなんとかしなくてはならんでしょう。

 警告画面が出るとか、警告音を出るとか、ふたが途中と止まるとか。

 ロボットが作れるなら、きっと出来るはず。。


「遠足のような一日」'10.10/14

 昨日は、長い一日であった。

 朝、2時半に起きてから、いろいろ作業して、

 6時前に家を出て、それから墨田区の果てで、

 もーれつに仕事。また家に戻ってきてから、ライブの準備、

 新曲創作。ライブ会場に着いてから、音響のセッティング、

 リハーサル、そのままライブとなった。

 その日の午前中に自分が、墨田区の果てにいたなんて、

 遠い時間の出来事のように感じられた。

 まるで二日間、起きているような感覚。

 遠足にでも行ったような気持ちになった。

 今日、明日はたぶんかなり眠るであろう。

 それがもったいないといつも思う。


「水飲み鳥」'10.10/12

 友達から水飲み鳥をプレゼントされてから二週間ほほどたった。

 水飲み鳥は、無事元気に水を飲み続けている。

 まだ気温が高いせいもあるのだろう。

 それにしても、なんともシンプルな仕組みになっているのだろうと思う。

 ちゃんとお尻に本物の鳥の羽がついているのも愛嬌があっていい。

 以前にもずっと、水飲み鳥を置いていたが、今回はつくづくと感じていることがある。

 それは、、ちゃんと水を飲むということ。

 常に頭が水で濡れていないとだめなので、自分で飲んでいるわけだけれど、

 そのぶんコップの水もへるわけで、定期的に補充している。

 水がへり続ければ、水飲み鳥の頭は乾き止まってしまう。

 生きてるというには妙ではあるが、お世話しないと止まってしまう。

 あたりまえのことなんですけど、そのあたりまえがすごい。


「すし太郎にまつわる傑作的な光景」'10.10/10

 実は、あったかごはんにまぜるだけの「すし太郎」を、

 けっこう良く食べている。僕の重要な食事のレパートリーのひとつ。

 僕でさえも、かなりうまく「すし太郎」を作ることができる。

 毎回、うまいし。

 何ヶ月も「すし太郎」を作っていると、あることが重要なことがわかった。

 それは、「すし太郎」を混ぜてから、仰ぐことだ。

 説明書きにも「うちわで仰ぐと、ごはんにつやがでます」と、書かれてある。

 そういえば、オフクロもちらし寿司をうちわで仰いでいたっけな。

 きっと、そこで「うまさのちがい」が出てくるのではないかな。

 昨日も「すし太郎」を作った。そして決め手となる「仰ぎ」の場面となった。

 よく考えたら「うちわ」が、そこにないんだよね。

 しかたがないので、コンビニのお弁当のトレイをうちわ代わりで仰いでみた。

 一所懸命に仰いでみた。

 (うっ、これ何かに似てるぞ)

 そうそう、卓球の素振りだ。

 僕は小学校時代より、卓球の素振りをかなりやっていた。

 ライト、ライト、レフト、ライト、レフト、ドライブ、バック、スマッシュ!!

 これぞ一石二鳥。エクササイズにもなる。

 でもなぁ、今、卓球はやっていないんだけどね。

 お弁当のトレイじゃしょうがないんだけどね。 

 ひとり台所で「すし太郎」に卓球の素振りをしている光景。

 これは傑作だと思ったわけです。


「ガツンとした人のライフ」'10.10/8

 朝の駅のホームにぼんやりと立っていると、

 いつも、靴をコツコツと音をさせてゆっくりとやってくる人がいる。

 体格もしっかりとしていて、短めの髪、四角いメタルフレームのメガネ、

 あつい胸板に厚めの白い生地の胸の開いた半袖シャツ、日に焼けた顔に銀のネックレス、

 そして、革の黒い四角い大きめのカバン、カバンには金の金具。

 黒の革靴はきれいに磨かれてあり、しっかりと立っている。

 少しはなれて、僕は眠くてぼろぼろ気分。

 あのガツンとして人のライフって、どんなだろう。

 ガツンとした部屋に住んでいるにちがいない。

 四角い本棚に四角い本、四角い机に四角いノート。

 買ってきたお弁当も黒い四角、とんかつ弁当。

 ブラック仕様の大きめの液晶テレビで、ワイルドな映画を。

 四角いメガネを外し、四角いベッドで眠る。眠る。

 これはまあ、架空の話ではあるが、

 そうでないとも言いがたい。

 どうしてそんなことになるんだろう。

 ガツンとした人のライフ。

 いかにも自分らしくていいんじゃないか。

 それが大事。


「いくつもの失敗」'10.10/6

 ライブのビデオ撮りを始めてからもう20年たった。

 その間に、数多くの失敗をした。

 その度に悔しかったこと。

 その度に教訓を得た。

 これはレコーディングでも同じであろう。

 失敗しない、ビデオ撮りがどんなに大変なことか。

 コンセントが取れたり、テープ録画時間が足りなくなったり。。

 最新型のビデオカメラは、かなり素晴らしい。

 ほぼ失敗なく撮れる機種も出ている。

 失敗するって、ほんの小さなことが多い。

 テープが出なくなったりね。

 同じテープにまた録画しちゃったりね。

 いくつも失敗があって、僕は助かっている。

 失敗が僕のビデオ撮りを作っていると言ってもいいだろう。


「同じ同じ」'10.10/4

 今、ほぼ毎日、以前のライブビデオをデジタル化しているが、

 ここ二日はやらなかった。

 ちょうど、昨日、一昨日と、古いドラマのダビングをして、

 かなり集中してしまったからだ。

 やっぱり一日、一本が限界なのかな。

 お腹いっぱいだ。

 一日、500円ずつ持っているとして、

 それを使ったような感じ。

 ライブビデオのデジタル化は、二日間お休みになったが、

 その集中力を使ってしまったのだからしかたがない。

 しかたがない。

 同じ同じ。 


「自分が自分に助けられる」'10.10/2

 20年ほど前のライブビデオの保存作業をずっとしているが、

 5年ほど前一度、他のデジタルテープにダビングしたものもけっこうあり、

 そのときの自分の残した情報がとても役立っている。

 どこで、どんなノイズが入るとか。。

 よくこんな細かいところまで、残しておいてくれたものだ。

 自分が。

 今、また別のメディアに保存しているが、とてもそれが助かっている。

 ときどき僕はこんなふうなことをする。

 そこにはかなりの時間がかかっているのは知っているが、

 こんなことをした自分がいる。

 そのかいあって、今、とても助かっている。

 たぶん5年前は、ずっと先の未来の時間の誰かにために、

 そのデータを残したと思うのだが、

 結局、それは自分が使うことになった。

 こういうことはよくある。

 誰かが植えた植木の庭のようなものがある。

 あっ、これ自分がやったんだと思い出すようなもの。


「回転寿司」'10.9/30

 以前は回転寿司だったところが

 普通の寿司屋さんになり、また最近同じ回転寿司に戻った。

 さて、入ろうかなと思ってのぞいてみると、寿司が流れていない。

 それでも入ってみると、すぐに「ご注文くださーい」と、声をかけられる。・

 そうなのか、、結局、注文寿司と同じになった。

 (まあ、時間帯によっては、寿司はちゃんと流れていると思うが・・)

 その後ものぞいてみるが、やっぱり寿司が流れていない。。

 僕はよく回転寿司には入るが、できるだけ注文はしない。

 適当に待ってて、(あっ、新しいのが来た・・)と、よく皿をとることはある。

 よほど食べたいのがないときは注文もするが・・。

 流れてくるものを、選んでみるというのも、それも楽しみだし、

 誰とも話さなくていいというのも、気楽で良い。

 気楽で良い。

 なぜ、あなたはお寿司を食べるのですか、

 「そこに寿司が流れてくるから・・」


「暑いのも良かった」'10.9/28

 9月も終わりになって、急に寒くなった。

 部屋の温度で10度は低い。

 長袖シャツを今、着ているが、もう一枚ジャケットを着たいくらいだ。

 つい先日まで、Tシャツ一枚だったのにな。

 二ヶ月ほど、毎日暑かった。早く、涼しくなって欲しいと強く望んでいたが、

 実際に涼しくなると、なんだか夏が恋しい。

 言葉ではうまく伝えられないが、、。

 20度あるんだから、ちょうどいい室温だと思うのだけれど、

 なんだか寒いくらいなんだよね。まるで冬に近い。

 冬ではないよ。20度だよ。

 こんな寒くなるなんて、思ってもみなかった。

 これも夏が長かったせいなのか。

 暑いのも良かった。どんなふうに暑かったか、

 よく思い出せないのだけれど、

 寒くはなかったな。


「年代」'10.9/25

 10代、20代、30代、40代、50代、、

 昨日、友達のライブを観に行った。

 友達はこれから30代になるところだ。

 僕の唄の創作は30代になってからが、始まりだった気がする。

 まだまだこれからが楽しいよ。

 思い返せば、僕にも10代はあった。20代もあった。

 そして30代もあった。今は40代。

 なんだか、それぞれの年代の別の自分がいるような気もしてくる。

 比べられない充実感。

 そして、50代、60代と続くのだろうけれど、

 ここまで、流れに沿ってやって来たような感じがあるので、

 このまま、流れに沿ってゆくのも、なんだかいやだな。

 このさきは、自由にいかしてもらおう。

 たぶん、それで合っているんじゃないか。

 自由帳のページのように。


「ギターの時間、人の時間」'10.9/23

 1969年製のヤマハのFG-180というギターを持っている。

 僕自身は'90年に古物屋で買ったのだが、そのときで20年たっていた。

 それからまた20年。今年で40年目のギターとなるわけだ。

 この20年もかなりこのギターを弾いたけれど、

 生活品のように使ってきて、今も現役で活躍している。

 たぶん、ほとんど20年前と状態は変わっていないだろう。

 もし、これが20年間押入の中に入っていたら、また状態はちがっていただろう。

 なんだかね、40年もたっているギターとは思えないほど、丈夫のままだ。

 僕のこの20年があっというのようだったように、

 ギターもそんなふうに時間を感じているんじゃないだろうか。

 生活品のように弾いてきたので。

 壊れているひまがなかったように。


「映像保存」'10.9/21

 やっと重い腰を上げて、古いライブ映像をデジタル化している。

 今のところ、'80年代がなんとか終わった。そしてこれから'90年代。

 古い映像はみなテープで撮られていて、劣化が進みはじめているので、

 さすがにデジタル化をしているのだ。

 10年くらい前から、どうやって保存しようか迷っていたが、

 最近はブルーレイという録画DISCがあり、ほとんど同じにダビングが出来る。

 とりあえず、ブルーレイに保存しておけば、なんとかなるような気がしている。

 持っているすべてのライブ映像をブルーレイ化しようと決めている。

 ・・・・・・・

 もう約二ヶ月、ブルーレイ化の作業を続けているが、

 古いテープから、映像がお引っ越しをしているというか、

 新しい船に乗ったという感じである。もういちど、テープの中から飛び出して。

 映像が嬉しがっているのが伝わってくるようなのだ。

 やっと、30枚ほど。。これから'90年代。

 この先、実は300枚ほど近く作らねばならない。

 映像のお引っ越しだ。なんとかやりとげなくてはね。

 これはこれで嬉しい作業ではある。


「立ち喰いそば過去セット」'10.9/17

 パソコンのプリンターが故障して修理に持っていった。

 もう古い機種で、来年以降は修理部品がなくなると言われた。

 とても値段が高く、機能が素晴らしくても、来年以降は修理が出来ないのだ。

 おお、なんともむなしい気持ち。

 僕の部屋にある機械はほとんどのものが、古いタイプであり、なんだかそれは僕の人生のようでもあった。

 時代が変わってゆくのはしかたがないというのか、いつまでも今のままではいられないというのか。

 そんな気分のまま、中野駅のホームで三鷹行きの総武線電車を待っていた。

 時間もあるので、ホームにある立ち喰いそば屋さんに入った。

 夏なのだけれどね。。かきあげそば、生玉子入り。

 僕が東京に出てきた頃、お金がなくなると立ち喰いそばをよく食べた。

 値段は少しは高くなっているけれど、ほとんど変わってはいない。

 おしゃれな感じではないし、なんだかとても安心した。

 僕の中で、何かバランスがとれていった。

 食べているうちにいろんな想い出がつながっていった。

 立ち喰いそばには、いろんなセットがある。

 立ち喰いそば過去セット、ひとつ。

 300円ちょっとなら安いものだ。またがんばります。


「歌がほんとにへたなんです」'10.9/17

 小さなライブハウスで歌い始めた20年ほど前、

 三人ほどのユニットでも、やったりしていた。

 その頃のビデオを見てみると、ほんと恐ろしく歌がへたでびっくりする。

 自分がね。

 信じられないくらいに、へたなんです。

 なんだかノリノリで。きっとバンドでやるのが嬉しかったのだろう。

 いや、バンドだけではない、ソロの弾き語りもとんでもなく歌がへただ。

 かっこつけてるというのかな。自然ではないんだよね。

 その前の自由スペースで歌っていた頃の方が音程はかなり悪いが自然だった。

 ライブハウスで歌い始めた頃、バンドを始めた頃、

 ボーカルの旅に出たようなものだな。

 失敗はボーカルの母って言うじゃないか。

 ほ ん と そ の と お り


「まぼろし三番」'10.9/15

 今、20年ほど前に自分のライブ映像を編集している。

 小さいライブハウスで歌っていて、

 「今日できた歌です」とか言っていた。

 その出来た歌は、今も僕のレパートリーであるのだけれど、

 作ったばかりなので、今と歌詞が少しちがう。

 おまけに、今は歌っていない幻の三番まで歌っていた。

 その三番は、どんな事情から歌から消えてしまったのかは忘れたが、

 悪くない。じゅうぶんに悪くない。

 他の歌も、今は歌っていない歌詞のところがあった。

 自分でもおどろくばかりだ。

 生まれた頃の歌。

 そこには自然の風景が見える。

 もどっておいで。

 作ったのは僕だし、まぼろしの三番を、

 そのうち歌ってみよう。


「外で歌う」'10.9/13

 先日、たまたま外で少し歌うことになった。

 ボーカルにはマイクがあったが、生ギターの方はそのままであった。

 室内でのノーマイクはよくあるけれど、外でのノーマイクのギターは久し振りであった。

 弾いていると、ある程度の感覚は自分でつかめるのだけれど、どうも思っている音と一致しない。

 ちょっと前にギターを修理に出したせいもあるのだが。。

 弦高が低くなったぶん、ボリュームが物足りなく感じた。

 まるでイメージどうりには弾けなかった。

 たぶんライブハウスで弾いているときよりも、1.5倍ほど強く弾いているのだろう。

 何回も外で歌えば、それなりにギターのくせもわかってくるのだが、

 まるでいい音を作れなかった。

 普通は逆なんだよね。

 中学校の頃、外でよくギターを弾いた。

 そのとき、ギターの音の良さにびっくりしたものだった。

 今回はそれが逆になった。ショックであった。

 まだまだ勉強が必要だ。 


「ななめのアップぎみでとればよかったとおもっているのです」'10.9/11

 企画ライブでは、いつも記録としてビデオを撮っている。

 もう30年ほど。たいがいはいつも正面からの撮影であった。

 撮影当時は、記録として考えていたので、撮影方向なんて特に何も考えていなかった。

 たとえばの話。

 記念撮影をカメラでするとき、たいがいはみんな正面からシャッターを切るよね。

 ほとんどそれと同じ感覚で、ライブを正面からビデオに撮っていたわけです。

 もう30年ほど、記録として。

 ・・・・・・・

 そして30年ほど、ライブビデオを撮ってきて、

 時間を越えて、新鮮に遠くまでライブを飛ばすには、

 ななめのアップぎみで撮るのが最適だったと思えている。

 特に弾き語りのときは。

 ななめのアップぎみの映像って、ちょうどいい隙間があるんだよね。

 見ている人が、しっかりとのぞいている感じで。

 正面だと、目があってしまうからね。

 少しななめの方が、素直によく伝わるということは多い。

 ・・・・・・

 もしかしての話だけれど、

 もしかしての話。

 ひとつの歌には、やっぱり旬の頃ってあるんじゃないかと思う。

 歌っている本人にも、イメージの旬の頃ってあるのではないかと思っている。

 年をとって、それなりに味が出て、良い場合も多いけれど、

 作った歌との関係が、まぶしいくらいに光っているときがある。

 そのときの映像をぜひ、時間を超えて、新鮮に遠くまで飛ばせたらと思う。

 ああ、ななめのアップぎみで映像を撮ってあればな、、。

 ほぼ100パーセントで、伝えられるのになって思う。

 そんなこと、思いもしなかった。

 ななめのアップぎみの映像には、何か時間を越えたすきまがある。

 記録として、それを残したかった。


「フィンガーピッキング」'10.9/9

 この夏はもーれつに暑くて、睡眠時間をかなりとった。

 いつもだったら、30分1時間とギターを弾いていたところだが、、

 この夏を乗り切るだけで精一杯であった。

 体がどれだけ疲れているか、自分でも想像がつかない。

 指もなんだか、がくがくする。 

 最近多いのが、コップの水をこぼしそうになることだ。

 指の感覚と脳の感覚が一致しない感じなのだ。

 ギターのフィンガーピッキングをしてみると、どうもうまくいかない。

 こんなにうまくいかないなんて、自分でもびっくりだ。

 3分・5分と、一定のリズムでフィンガーピッキングを続けることができないのだ。

 途中で、気がゆるんでしまう。

 仕事で右手の人差し指をずっと使っているが、それが影響しているのかな。 

 それとも単に練習不足か、、。

 きっと練習不足だ。

 この秋は「指練習の秋」となるだろう。


「スズメは何て鳴いているか」'10.9/7

 夏の夕方まえ、静かな路地で、

 二十羽ほどの雀がちゅんちゅんと鳴きながら、

 場所から場所へと移動しているのを見た。

 道から塀、そして屋根へと、、。

 その飛ぶ場所場所は毎日決まっているのかな。よく見る光景ではある。

 ちゅんちゅんと雀たちはなんとも嬉しそうに鳴き、

 その声は路地に響いていた。

 雀は何て鳴いているのか?

 通りかかったとき、僕にはこう聞こえた。

 「ココハボクガキタトコロ サイショニサイショキタトコロ

  ココモボクガキタトコロ サイショニサイショキタトコロ」

 そんなふうに聞こえたんです。


「アリスが言ったこと」'10.9/5

 不思議の国のアリスの映画を観た。最新作の。

 本の世界をよく映像化したなと感心した。

 その最後のシーンの方でいよいよ、

 アリスが現実の世界に帰れることになったとき、

 マッドハンターがアリスの耳元で、

 「ずっとここにいてもいいんだよ、、」とささやく。

 するとアリスが「いろいろ、やりたいことがあるの」と答える。

 そうしてアリスは現実の世界に戻ってくるわけだけれど、

 僕もやっぱりそう答えるだろう。

 そう答えたとして、それが現実になるわけだな。

 やりたいことがあるんだ。

 どっち夢なのかわからなくなりました。


「声」'10.9/3 

 ちょっと鼻がつまっているなぁと思いながら、朝に起きると、

 声ががらがらになっていった。 

 熱帯夜でクーラーをつけていたせいもあるのか、水分がなくなってのどが乾いてしまったのか、

 とにかく、ひと晩で声だだめになった。

 これはショックだった。それから今日で三日目だが、まだ直らない。

 今、トローチをなめている。

 いままで、歌いすぎで声が枯れたことはあった。

 風邪で咳をして、声が枯れたことはあった。

 しかし、歌いすぎでもなく、咳もしなくて、

 声がこんなに枯れたのははじめてだ。

 ライブがなくて良かったが、ライブがあったら歌えなかったであろう。

 歌い過ぎや咳ならば、いろんな対処法で、声枯れを予防できたであろう。

 今回はどうにも無理であった。

 突然にこうなる。

 突然にこうなると、声が職業の人たちの大変さがよくわかった。

 なんとか声枯れを治す方法はないものか、、

 声の職業の人は、きっと知っているのではないか。。

 明日、武道館コンサートでなくて良かった。


「歌の記載」'10.9/1

 メロディーを創作するときはテープレコーダーを使うことが多いが、

 歌詞をまとめてゆくときは、ノートに歌詞とコードを書いてゆくことも多い。

 昨日もそうやってまとめていった。

 メロディーは同じだが、ワンフレーズごとに歌いやすいように、

 いろいろ変えていった。

 イメージの中で、ライブハウスや大きな会場で歌うことも想像しながら。

 それは、空間の中にメロディーと歌詞を置いてゆくようなもので、

 言い方を変えれば、空間の中に筆で歌を描いてゆくような感じだ。

 ノートに歌詞とコードがもう付いているけれど、

 そこからもう一度、空間に浮かせて変化させてゆくわけで、

 歌の記載はそちらの方が合っている。

 どうやって紙に残すかは、不明だが。

 歌詞とコードだけでは、ほんと別物であるようだ。


「言葉遊びのうた」'10.8/30

 先日、ライブでアメリカの古いフォークソングを歌った。

 その歌は18番まであり、一番一番は短いのだけれど、

 フレーズの終わりが言葉遊びのようになっていて、

 かなりの早口で歌わなくてはいけない。

 英語では韻を踏んでいて、それなりに歌いやすいのだろうけれど、

 日本語だと、かなり早口で歌いにくい。

 しかし、その歌のよさは、その早口のところにある。

 以前一度、歌ったときはそれなりに歌えたのだけれど、

 先日は、ほんとボロボロであった。

 途中から、口があまりうまく回らず、

 しまいには、つかえてしまった。それだけはしたくなかった。

 「一番のり」と言うところを「一番星」と歌ってしまった。

 部屋で何度も歌ったんだけどな。

 それでは足りなかった。お得意の18番SONGくらいに仕上げないとな。

 これはそういう歌なんだな。

 歌にわるかった。今度はちゃんと必ず歌う。


「ギター、こんな努力」'10.8/28

 修理に出していたギルドのギターが直ってきて、

 少し弦高が低くなったら、音の出方がかなり変わってしまった。

 特に6弦の響きがちがう。

 弦高が低い分だけ、ぼわーんと言う感じがなくなったのだ。

 これが普通なのであるが、、。

 先日、ライブで以前と同じように弾いてみたら、ギルドギターらしい響きが

 いまひとつ出すことが出来なかった。

 まるで国産のヤマハFG-180のような音になってしまった。

 国産のギターを弾くときは、ピックでじゃがじゃが弾いても、

 それなりの音になって聞こえる。

 歯ごたえというが、弾きごたえがあるというのかな。

 それはなんというか、陸上で言えば100M走と似ている。

 走りごたえがあるというか、、。

 持っているギルドギターは、人の年齢で言えば元気な50歳くらいのギターだ。

 陸上で言えば、マラソンかな。力強さは、きっとその最後のラストスパート。

 100M走とは、ちょっとちがう全力の響き。

 どんなふうに走っても、どこか初老の響がある。

 若さのある弾き方は、少しだけ無理が出る。

 ・・・・・・・・

 さて、僕のする努力は、

 弦高が下がったぶん、僕の弾き方の方で調整するしかない。

 具体的には、少しネックよりの方で弾き、

 低音弦は、もう少しだけネックよりに鳴らす。

 フィンガーピッキングのときは、6弦の丸い響きが消えないように、

 弾くアタックを少し弱める。

 ストロークのときは、以前よりも弱めに弾く。

 すると、音の張りが弱くなるので、

 以前より少しピックを立てて音の粒立ちを良くする。

 たぶんこれで、このギルドギターの響き出てくるはず。


「小さく書く」'10.8/26

 駅のホームに立っていると、いつも大きなポスターが見える。

 とある女性シンガーのニューアルバムの広告のポスターだったときがあった。

 髪が流れるアップの顔に、小さめローマ字で名前が書いてあったはず。

 ファンというわけではなかったが、CDアルバム聴いてみたいなぁとつい思ってしまった。

 ポスターが良かったんだな。それはきっとジャケットであったろう。

 僕も自分のCDアルバムのジャケットを作ったりしているけれど、

 つい、タイトルと名前を大きく書いてしまう。

 どうしても、、不安で。

 それ以上に、やっぱりそうでなくちゃという意識があるんだ。

 しかし、世の中のポスターは肝心な文字がとても小さいものがある。

 それが効果的であることはわかる。何か心の法則があるのだろう。

 もしかして、小さく書くのも大きく書くのも同じなのか。

 最初に文字を見るか、写真を見るかのちがいなのかな。

 僕はまた自分のアルバムジャケットを作るだろう。

 不安で文字を大きく書いてしまうだろう。
 


「ファッション」'10.8/24

 先日、部屋を片付けていて、着ていない服が山ほどあるのがわかった。

 ほんと、山ほど。

 この夏は猛暑続きで、まるまる二月ほどTシャツとジーンズで過ごした。

 毎日、毎日同じ緑のTシャツ、なにしろ20枚以上持っているので。。

 そんな僕に比べて、世の女子たちは夏ファッションを実に楽しんでいるようだ。

 今年は、へとへとで僕はこの猛暑を乗り越えるだけで精一杯。

 片付けた服の中には半袖シャツがかなりの数あり、それは夏の間に着られたはずなのに、

 毎日、同じシャツで過ごした。ファッションを意識する余裕がなかった。

 こんなはずではなかったのにな。

 服も出番がなくて、この夏がさびしいであろう。

 この秋はファッションの秋とするかな。


「ギターが戻ってくる」'10.8/22

 ギルドのギターが修理から戻ってきた。

 チューニングがほぼ完璧になって。

 修理屋さんが言うには、

 「想像以上にネックの状態が良くなりました。

 想像以上ということは、また元に戻る可能性も高いという事です。

 まあ、大丈夫と思いますが、保証は出来ません」と。

 弦高は1ミリ以上低くなり、とても弾きやすくなった。

 音色の変化もなかった。嬉しい限りだ。ギターも喜んでいるだろう。

 ・・・・・・・・

 このまま毎日弾かず、ステージギターとするならば、

 たぶんネックの状態は良いままで続くだろう。

 毎日弾いてゆくならば、少しずつネックは元の状態に近付くであろう。

 (もしかしたら、大丈夫かもしれないが・・)

 さて、どうしたものか。。

 つい先日まで、毎日弾いていたギター。

 さて、どうしたものか、、悩むところだ。

 学校の先生ならどう言うかな?

 ギター好きの友達ならどう言うかな?

 そして僕が同じ質問をされたら、どう答えるであろう。

 「とりあえず毎日弾いて、毎日弦をゆるめる。そしてしばらく様子をみる」

 これしかない。


「スイカを食べる」'10.8/20

 この二日間、スイカを食べた。

 この夏は特に暑く、いろんなスポーツドリンクも飲んでみた。

 一昨日、スイカを食べたとき、それ以上に体が喜んでいるのがわかった。

 食塩もつけてね。

 そして昨日もスイカを食べた。

 体が自然とスーパーに向かったのだ。

 夏にスイカとは、ほんと、素晴らしい。


「思うようにならない時代」'10.8/18

 ベートーヴェンの第九交響曲の演奏をテレビで観た。

 あのシンプルなメロディーが出て来るのは後半の楽章になってからだ。

 第一楽章は、混沌としたイメージで始まる。

 ベートーヴェンのピアノソナタを聴いていても、その始まりは混沌とした感じが多い。

 今から約200年前の作品。その時代。

 現代はインターネットや電話、交通や医学も進歩していて、大変便利な世の中である。

 200年前、今よりもっともっと思うようにはならなかったであろう。

 病気が治らなかったり、大雨で馬車が進まなかったり、、。

 まあ、恋愛の苦悩は今とほぼ同じだったかもしれないが。

 思うようにならないことに、日々の生活が追われてしまっていたかもしれない。

 音楽を聴く、心の余裕から少し遠く。

 ベートーヴェンのあの混沌とした第一楽章を聴いていると、

 聴いているみんなが、やりきれなさをそこに感情移入することが出来る。

 ひととおりその混沌さが過ぎると、印象的なメロディーが出てくる。

 包みこむようなメロディー。

 そのメロディーが出てくるためには、やはり心の流れが必要だ。

 現実と、そして現実を越える想いの神秘。

 もちろん怒りもある。疲れもある。安らぎもある。

 ベートヴェンの楽曲は、ちょっと大げさが感じではあるが、

 200年前は、今よりもっと思うようにならかったからであろう。


「時間が過ぎるのが早すぎる」'10.8/16

 昨日、ミニコミ「会議」を作っていたが、

 朝の9時くらいからいろいろやってて、

 結局、コピーに行ったのが夜11時すぎであった。

 その間、14時間もあるのに、自分が何をやっていたのか不明だ。

 どう考えても、6時間くらいで出来上がるはずなのに。

 オレナニヤッテイタンダロ、、??

 時間が過ぎるのが早すぎる。

 思うに、、

 たぶん、1時間のうち、30分はひと休みしていたのではないか。

 まちがいないな。

 それにまちがいない。

 本人が言っているのだから。。


「東京スカイツリー」'10.8/14

 ほぼ毎日今、東京スカイツリーの建築現場のそばで仕事をしている。

 もう400メートル近くの高さになっているが、見上げるとくらくらとしてくる。

 きっともう高すぎるんだよ、首が直角に曲がるようだからね。

 最近は天気と、スカイツリーとの関係を注意して見ていて、

 そのうち、スカイツリーで天気の予想が出来るのではないかと思っている。

 先日も、スカイツリーのほんとすぐ近くで仕事をしていて、何度もてっぺんを見上げたけれど、

 距離の感覚がおかしくなってくるのが感じられた。

 遠いのか近いのか、、それは目が見ている一枚の画面の中にあるわけで、

 700メートルが、その画面の中で現象として起こっているのだ。

 人は距離感がつかめないと、不安になるのかもしれない。

 目の錯覚のような、、そんな感覚が起こる。

 よく、物事の大きさを現すのに、タバコの箱を一緒に置くけれど、

 それと同じようなものが一緒にないと困るなぁ。

 もう比べるものがないんだよね。


「青ちゃんだった頃」'10.8/12

 25年前の自分の古いライブビデオを編集していたら、

 しきりに市場でアルバイトしていた話を自分がしていた。

 その中で「市場ではみんなが僕を、青ちゃん青ちゃんって呼びます」って言っていた。

 そうなんだよ。今思い出すと、市場の頃は、ほんとに楽しかった。

 ほんとに。

 夏も冬も秋も春も。

 どの人にも愛称があり、その呼び名で呼んでいた。

 朝早くから、午後すぎまで、青ちゃん青ちゃんってみんなが呼んで。

 僕は3年ちょと秋葉原の青果市場にいた。

 仕事は大変だったけれど、ほんとに楽しかった。

 ほんとに。

 秋葉原に巨大な青果市場あった。

 そこに三年ほど青ちゃんがいました。


「英語の歌」'10.8/10

 友達との古いライブビデオを編集してたら、

 英語を歌を、さらっと歌っている友達の映像をいくつも観た。

 僕も英語の歌はかなり聴いてきたけれど、歌詞を歌えるようには憶えられなかった。

 だって、知らない単語も多く出てきたし、イメージでだいたい歌えていたので。

 友達は次から次に英語の歌を歌う。

 日本語の歌詞を憶えているのと同じように。

 あの友達もこの友達も、英語の歌を軽々と歌う。

 みんな英語が得意だったんだな。

 僕なんて、ボブ・ディランの「風に吹かれて」くらいしか憶えていなかった。

 友達は、英語の歌をちゃんと意味を聞き取りながら聴けていたのかな。

 それだったら、すごいな。僕なんて訳詞とにらめっこだっただからね。

 それにもまして、英語の歌をちゃんと憶えられるってすごい。

 僕とレベルがちがう。語学力の差か。。


「人は集中力がなくなると」'10.8/8

 先日、猛暑の中、仕事で一日外にいて忙しく歩き回っていた。

 四日ほど続いて披露もピークに来ていた。

 事務所に帰って来て、いろんな作業をするのだけれど、どうもいつもとちがう。

 やっていることがまとまらないのだ。作業がまるで効率的でない。

 なんだかいつもとちがう。

 ついには、ついさっきあったばずの書類が見あたらなくなってしまった。

 どこを探しても、それは見つからない。ありえない話だけれど、見つからない。

 なくなると本当に困るのだけれど、それがどこにもないのだ。

 20分以上探し回ったけれどない。先輩に報告したが、さっきあったんでしょと言われて笑われてしまった。

 だが、僕の脳がどんなにがんばっても、その場所がわからない。

 ひとつひとつ行動をたどってみても、だめだ。僕の頭がどうにかなってしまった。

 一時停止

 その書類をも一度番号で調べてみたら、、それは今日の行った現場ではなく、

 昨日の現場であることがわかった。僕はすっかり、今日のことだと勘違いしてしまった。

 書類はあるわけないよ、昨日出したのだから。まるでおとぼけである。

 頭の中で昨日と今日がつながってしまっていた。

 こんなことってあるか? 実際にあるんだな。教訓です。


「ボーイスカウト」'10.8/6

 外仕事をしていると、いろんなケガをするものだ。

 あるときつまずいて、空家の玄関のガラス戸を割ってしまったことがあった。

 手をガラスについたために、手のひらを切ってしまった。

 ガチャンと大きな音もしたたために、斜め前の家のご主人がすぐに来てくれて、

 即座にいろいろと対処してくれた。

 僕のケガのこと、空屋の玄関の応急修理のこと。

 隣の隣の人にも声をかけてくれて、いろいろと手伝ってもらっていた。

 ほんとに段取りがよかった。

 隣の隣のご主人とは、かなりの仲良しであるらしく、意志が通じ合っているようだった。

 60代のおじさんであった。

 そのときは、ほんとにお世話になった。ケガの手当も即座の対応で助けてもらった。

 そして先日、そのおじさんが、地域のボーイスカウトのまとめ役の人であることがわかった。

 もしかしたら、隣の隣のおじさんもボーイスカウト仲間であったかもしれない。

 緊急のときの対処というものが、素晴らしかった。

 沈着冷静、即座実行。ボーイスカウトさん、ありがとう。


「スーパーピアノレッスン」'10.8/4

 NHK教育テレビで、以前よりやっている「スーパーピアノレッスン」という番組がある。

 初心者向けのレッスンではなく、ほぼプロに近いみんなに、曲の解釈も含めて、

 極めた演奏者がレッスンをしてゆくとものである。

 最近観た回は、ベートーベンのピアノ協奏曲が課題曲であった。

 その曲を演奏できるというのは大前提で、微妙な表現力のレッスンとなる。

 先生の話を聞いていると、実にそうだなぁと感じられる。

 ひとつの楽曲の全体を理解し、流れをつかむのが、こんなに想像力がいるものかと思う。

 人生のいろんな経験がやっぱり必要なんだとわかる。

 ひとつのレッスンの中で、いろんな名言も出てくる。

 「そこはショパンのように弾いてはいけませんよ、、」

 生徒の方もピンと来て、わかっているようすではあった。

 生徒もまた先生の言葉にすぐに反応できるのもすごいのだが。

 スーパーピアノレッスン。なぜピアノばかりのレッスンなんだろ。

 他のいろんなレッスンシリーズも観てみたい。


「腰を上げる」'10.8/2

 ずっとちょこちょことはやってきたのだが、

 やっと古いライブビデオ映像のデジタル保存を始めた。

 保存をしなくちゃと思っていながら、はや15年ほどたった。

 この一年ほどでやっと保存の仕方のめどが立ち、

 始めよう始めようとして、一年がたった。

 これからが長いんだよ。映像自体が800時間以上はあるんだよね。

 それを二回ずつダビングする予定なので1600時間。

 僕にはこの作業が出来るのか。

 でもやらないと刻々とテープの劣化が進んでしまう。

 僕もがんばるが、レコーダーにもがんばってもらわなくては。

 ひたすらにがんばるだけである。

 ただダビングのボタンを押すだけではあるが。

 こんなときほど、思い出す言葉がある。

 千本のダビングも一押しより。

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