●アートボックスホール
 
アートボックスホールでやった地下のライブは、ぜんぶ良かったという。そんな話をよく聞く。
 
高田馬場から早稲田方向に5分。演劇スペース「アートボックスホール」はあった。'90年終わり、僕らは「地下生活者の夜」のライブのできる場所を探していた。ある程度、人数の入れるスペースで、地下のライブを始めた頃の、ダンススタジオ「スタジオジャム2」の空気を持った場所がいいなぁと思っていた。
 僕は、いろんなイベントスペースを回ってみたけれど、値段が高かったり、音楽ライブができなかったり、なかなか場所が決まらなかった。そんな中、僕らの主旨を理解してくれて、こころよく、安価でスベースを貸してくれたのが、高田馬場のアートボックスホールさんだった。オーナーの人は、演劇をやっている夫婦の人で、僕がライブの相談に行った時、「いいじゃないか、かしてあげれば。」とだんなさんの後押しで決まったのだ。
 アートボックスホールは地下にあり、壁一面が黒で、収容人数は120人。音響の方は、持ち込みでやりました。'91年1月(第77話)から'92年7月(第86話)までの15回。毎回、PAの持ち込み、会場作り、そしてリハに飾り付けという忙しさ。演劇のスペースなので、半分は座布団、半分は椅子。ライブは三組ずつの出演でした。
 音量の方は、ドラムとベースなしだったので、基本的に、弾き語りのライブになりました。照明も持ち込みで、シンプルな明かりだけ。でもさすがに演劇小屋なので、落ち着いた雰囲気があり、弾き語りには出来すぎた空間でした。歌詞がじっくりと聴こえてくる、いいライブが続いてゆきました。手作りの良さもあったかもしれません。
 アートボックスホールのはからいで、安く貸していただいたおかげもあり、入場料は1000円でゆけた。東京以外のお客さんも、かなり来ていて、アンケートにはいつも「とってもいいスペースで、落ち着いて聴けました」と多くの人が書いてくれていた。「いままで観た地下のライブで一番良かったです」とも書いてあったりして、僕らも嬉しかった。
 そんな落ちついた雰囲気をもっていた、アートボックスホールでのライブも、音量的な問題から、終了することになりました。バンドでみんなやりはじめたせいもあり、ドラムとベースの使えるライブハウスにいく事にしたのです。アートボックスホールでのラストのライブは、名残惜しい気持ちでいっぱいでした。ずっとずっとPAを持ち込みでやってくれた、健さんは、「ずっとここでやってもいいかなって思ってたよ」とも言ってました。
 アートボックスホールでやった地下のライブを観た人は多いと思う。あの15回のライブを、15本セットのビデオで出したい気持ちでいっぱいだ。もちろんタイトルは「地下生活者の夜ライブ at アートボックスホール」('01 青木)
五十音indexに戻る

●ザ・大谷楽団メンバー紹介(大谷氏本人による紹介)
◇大谷氏・・'62年生まれ。'80年上京。'81年からライブ活動開始。以後4年間都内ライブハウスを中心に、路上、ツアーなど精力的に活動。'85年、帰郷。以後、富山と東京を中心に活動中。ズーと、ソロでやってきたが、'88年頃から本格的にバックをつけ出す。

◇とっちゃん・・東京都出身、富山県在住。ソロ・アーティスト。キーボード担当。
大谷氏側近中の側近。音楽面のみならず大谷のメンタル面でのサポートも光る。大谷の頭に血が昇ればそれを鎮め、落ち込んだ時は、「お父さん、がんばって」とはげます。ライブ時の体調を整えるため無農薬、無添加の調味料での食事をまかなうなど健康面でのサポートも見逃せない。但しマネージメント的な事は嫌いで一切やってくれない。電話も手紙も会話も苦手だが飲むとよくしゃべる。説教もする。

◇ゴトヲトシロヲ・・富山県出身、富山県在住。リードギター担当。
亀の甲より年の功。その幅広い柔軟な音楽性で、いくつものバンドをかけ持ち中。
富山のロックシーンでは長老的存在も大谷楽団では、ご家老的で、ゆくゆくは、娘のみのりのバックとして親子二代に渡って仕える予定。

みのり「ゴトーさん、もう少し、今っぽいフレーズで弾いて下さい!!」
ゴトヲ「姫、いけません!! 安易に流行に走っては。父上のお顔に泥をぬるような・・」
みのり「うるさいわね!! ウダウダ言うならクビよ!!」
ゴトヲ「トホホ・・先代は、こうじゃなかった・・。」

◇ナルさん&カコちゃん・・ナル・・愛知県出身、飛騨高山在住。ベース担当。カコ・・岐阜県出身、飛騨高山在住。ドラム担当。
ベースとドラムの息がピッタンコ。それもそのはず仲良し夫婦。
山越えた高山の住人なので、当所は、富山の地元でのメンバーが見つかるまでのつもりだったのが、いつのまにか、今までつき合ってもらってしまった。
普段は「サイバイズ」として各地で活動している。('99年「会議130号」ザ・大谷楽団10周年記念ごあいさつ原稿より)



「ザ・マイナー互助会」(千田、原、紹介文・'90年テープ冊子より)

◇千田佳生・・富山県出身。ペダルスチールギター。
多くのバンドからひっぱりダコ。イカ天でベストプレーヤー賞、受賞。しかし、そのせっかくのプレイも大谷から「ダメだ、カッコ良すぎる!!」とか「ノリが、良すぎる!!」とか、アレコレ、ストップをかけられ、よく衝突しそうにもなったが、何とか耐えて、人間的にも成長した。('90年)

◇原さとし・・富山県出身、マンドリン、他。
バンジョーの名手。奇せずして大谷の高校の1年後輩。高校の学園祭で、大谷のステージを見たのが、音楽を始めたキッカケという、多分、世界でただ一人の男。何もいわず、全てに大谷の意志を尊重して、いいプレイをしてくれるバックの鏡。('90年)

※本当にみんな、こんな私によくぞ長いこと付き合ってくれている。どうもありがとう。
ゲストの人達もどうもありがとう。大谷氏。
五十音indexに戻る

●「俺はゲロだ!!」ジーンズ
 
いろんな事には、きっとピークと言う時がある。みんなが東京に出て来て、三年くらいたった頃が、僕らの一番の汚れ服時代だ。着ている服もジーンズも、なんだか、疲れた感じになっていた。'83年の頃だなぁ。一人暮らしを始めて、一年・二年は、まだ新しさが残っているけれど、三年目となると、限界がくるようだ。
 みんなそんなに服もズボンも持っていなかったのだろう。たいがいは同じ格好だった。それともお気に入りだったのか。とにかく、だんだんすり切れてきたのだ。特にジーンズは、いっきに、破れ始めていた。でも、みんなもそうだったから、気にならなかったのだろう。
 僕のコール天のジーンズは、ひざが、すり切れてテカテカと光っていた。石川浩司のジーンズも、長年はいているような、よれよれ感で満ちていたし、山下由のジーンズも、あせた色の上に、土や草の香りがしてくるようだった。知久君はその頃、鍵の工場でアルバイトをしていて、いつも着ていたピグモン服には、油のしみてきていた。そして大谷のはいていたジーンズも、ひざがすり切れて、大きな穴になっていた。
 それは、池袋駅前のロータリーでの事。'83年頃、毎週そこに集まっては、歌ったり、騒いでいたりしていたのだ。みんな、創作ダンスを踊ったり、道に寝転んでは、猫の真似とかしていた。(これじゃ、汚くもなるよね) もう、大谷のはいていたジーンズが限界まで、ひざが破れてしまい、マジックインキで、大谷はジーンズに文字を書いた。「俺はゲロだ!!」他の言葉も、書かれてあっただろう。別にそのときは、それが自然だった。そのあとも、しばらく大谷は、そのジーンズをはいていた。
 そんな汚れ服装時代から、何年がたった頃、あるひとりの知り合いの女性が、僕にこう言った。
 「みんな、最近はきれいになったわよねぇ。知り合った頃は、すごく汚かった。そう、はじめて聞きにいったライブハウスで、大谷さんのジーンズに『俺はゲロだ』とか書かれてあって、びっくりしちゃったわ」
 ちなみに、大谷は、ジーンズの切れたあと、右左にポケットの付いた、クリーム色の作業ズボン時代に入るのだった。('01 青木)
五十音indexに戻る