上野・寛永寺の巻



徳川家の菩提寺である「寛永寺」。
「将軍霊廟」などが特別公開される、との極秘情報があるスジから入り、運良く見学が叶いました。


それではLets Go!



寛永寺には、駅でいうと山手線の「鶯谷(うぐいすだに)」から行くのが近いです。
「南口」で降りて下町とは反対方面に歩いていきます。
写真でみると、右側が寛永寺の墓地群、左側の塀の中は「国立博物館」なのですね。

今回は、オンライン初登場!
私の中学時代からのお友だち「いっこちゃん」を連れてきました。
このサイトの「ひとりごと」をご覧いただいている方には、超おもしろい「いっこちゃんの電車話」が思い浮かぶはずなの.....。(笑)

寛永寺「根本中堂」前で公開時間になるのを待っているところ。

浅草に生まれ育って70年以上、というおじいさんから
「ワシもずーっと浅草におるけど、こん中に入るのは初めてなんじゃよ。」
と伺いました。


寛永寺・・・徳川2代将軍秀忠公と天海大僧正によって創建が決められ、寛永2(1625)年、3代将軍家光公のときに創建された寺。
山号を「東叡山」という。
「東の比叡山」という意味で、信長に焼かれた「比叡山延暦寺」に倣って造営された。
江戸城の鬼門に建てられた、いわば江戸城鎮護の関東の叡山。

寺の中心となる建物は5代綱吉公が建立した「根本中堂」である。
当時の建物は建立の三日後に火事で焼失(勅額火事または中堂火事と言われる)、現存の建物は川越「喜多院」(天海僧正の住していた寺)の本地堂を移築したもの。当時の「旧根本中堂」は、今の建物の6倍にもなる壮大な建物であったとされる。
落成の際、東山天皇から「瑠璃殿」と書かれた勅額(ちょくがく)を賜った。

寛永寺は、歴代将軍、徳川家一門等が堂塔などを次々に寄進し、また徳川家の祈願寺と菩提寺を兼ねていたこともあり、江戸時代には天台宗の実質上の本山となっていた。
より広い意味では、江戸時代において我が国の宗教界のトップに君臨する存在であったといえる。

しかし明治維新の際、上野戦争によって建造物の大半が消失、朝敵並みの扱いを受けた。
15代慶喜公は慶応4(1868)年 2/12〜4/11まで、ここ寛永寺内の「葵の間」に謹慎され、4/11 江戸城の無血開城当日の朝早く、寺から生家のある水戸へ向かったのだった。

その後明治政府が発足され、政府の命により境内も江戸時代の1/10ほどに縮小され、現在に至る。



今回特別公開されるのは

・国指定重要文化財「薬師如来」
   〜伝教大師・最澄の作といわれる
・徳川家所蔵「歴代将軍の肖像画」レプリカ作品初公開
・5代綱吉公・8代吉宗公の霊廟
   〜他に4代家綱・5代綱吉・8代吉宗・10代家治・11代家斉・13代家定公、その夫人・家族の墓がある。

の三つだったのでした。


こちらが「瑠璃殿」の勅額。
数々の火災にも安泰に、300年もの時を経て根本中堂の正面に掲げられています。

これより堂内に入り「薬師如来像」と「将軍肖像画」を拝観します。

見学の舞台は根本中堂から将軍霊廟へ。

こちらが5代さん(というふうに、お坊さんは呼んでいました)のお墓となります。綱吉公ね。

ちなみに、初代〜4代まで石造りだったお墓が、地震のたびに倒壊しいちいち修理するのが大変 ということで、5代さんから「唐金造り」となったそうです。
初代〜4代さんのお墓は、さかのぼって唐金造りにされていったそう。

そして杉木立の石畳を抜け、8代吉宗公の霊廟も見に行きます。
こちらのお墓は石造り。幕府の財政難で、金属ものを使えなかったようなんですね。
形は5代さんと一緒で、素材は石のお墓を想像してください。

徳川の歴代将軍は、仏教〜法華経の教えに基づいて葬られたそうですが、15代慶喜公だけは「水戸学」の考え方から「神式葬」なのですって。

そして私たちが歩いているこの石畳や霊廟の周囲をぐるりと取り巻いている石垣などは、明治以降 勝海舟が私財を投じて造ったものなんですってさ。


常憲院(5代綱吉公)霊廟勅額門(れいびょうちょくがくもん)
初夏の紅葉(もみじ)

勅額門=天皇直筆の額を賜った門。現在は額は掲げられていない。
数々の火災や戦争などにも消失せずに残った、厳有院(4代家綱公)の霊廟勅額門と共に、国指定重要文化財。

今日の大江戸見学はここまででした。

そして、本日のもうひとつのお楽しみ!
「根岸 笹乃雪」さんのお豆富料理。
なにしろ元禄4年創業の300年も続く老舗だそうで、そんな由緒あるお店で食事するのも、私は初めてでした。

写真にはまず手始めのきれいなお料理が並んでいますが、この後にも 「ごま豆富」「豆富の茶碗蒸し」「豆富のお茶漬け」〆には「豆富のアイス」まで出てきたのでした。大満足。
右下は「あんかけ絹ごし豆富」なんですが、身分の高い方から「あんまり美味しいので二碗ずつ持ってくるように」と言われてから二碗一組でお客さんに出す習わしとなったのですって。
確かにいくらでもお腹に入りそうでした!どのお料理にも、しっかりと味があって美味しかったです。

ただ、豆富のアイスだけはちょっとショックでした アイスクリームジャンキーとしては。(笑)


特別読み物「笹乃雪」悲恋物語

「笹乃雪」は元禄4年 111代・後西天皇の第六皇子であり、上野・寛永寺と日光山・輪王寺の門主を兼ねる公弁法親王(こうべんほっしんのう)のお供をして京都より江戸に来た初代「玉屋忠兵衛」が根岸に豆富料理屋を開いたのが始まりである。

吉良邸に討ち入り、見事本懐を遂げ幕府の沙汰を待つ間、大石内蔵助以下17名がお預けとなった熊本藩・細川家に「笹乃雪」の豆富が、公弁法親王より届けられた。

細川家にお預けとなっていた浪士の一人、磯貝十郎左衛門は出された豆富を前にしてあの雪の日の娘のことが思い出されてならないのだった。


根岸の豆富料理屋「笹乃雪」の主人・玉屋忠兵衛には年頃の「お静」という娘があった。
ある雪の日、お静は家の言いつけで近くに用足しに出かけた。

根岸は坂が多い。
娘は雪道に足を取られて転んでしまった。
草履の鼻緒が取れた。

起き上がって途方にくれている娘を、ちょうど通りかかった男が助けた。
持っていた手拭いを裂いて、鼻緒を直してやった。

少し経った日、店を手伝っていたお静は思わぬ再会に驚くこととなる。
俳人「室井其角」に連れられて店にやってきたのは、
あの雪の日に自分を助けてくれた若者だった。

お静は恋をした。
その若者が赤穂浪士として、御法度とされている討ち入りを果たし
結果、運命として若い命を切腹で散らす者だとも知らずに。


総勢20名ほどにもなった食事会が終わり「笹乃雪」さんの店先で。

私たちふたり、まるで雲の上にいるかのようでーす
番頭さんの指先、お見事っ!



あとがき


クラブ活動みたいで楽しい1日でした。
寛永寺公開の情報をくださった百楽天さん、ご一緒してくださった皆さんありがとうございました!

「笹乃雪」で、元禄赤穂事件の唯一の生き残りの浪士・寺坂吉右衛門さんのご子孫・寺坂さんにお目にかかれたりもして、大変光栄でした。
「ホントに?ホントにーー!?」と心が大騒ぎしていました。
これをきっかけに私の大江戸探訪分野は、より広がりを見せそうな気配です.....。



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