3代将軍・家光側室 お楽の方


歴史はなるべく原始に近い方が、なんとなく心ひかれます。
常識や道徳観も今と全然違う時代の方がおもしろそう、と。

徳川3代将軍となった家光は、幼い頃は小心で無口で病弱な子供だったそうで、弟の忠長と比べられて実の母であるお江にもうとまれ、自殺を図ったという話が残っています。
この一件ののち、家光の乳母であった春日局が家康に直談判に行き、家康に「長子を跡継ぎにする」というルールを正してもらったというエピソードは有名です。
長じた家光は、実の弟である忠長を幽閉ののち自殺に追い込むのですが、名門であるほどナマぐさい話は残っているものです。


家光の正室は京から迎えた鷹司孝子姫でしたが、この結婚は全くの政略結婚で、二人の間には子供も生まれませんでした。
当時女性に興味を示さなかった家光はその後 春日局によって跡継ぎの必要性からたくさんの側室を送り込まれます。
お楽の方もそのうちのひとりでした。


お楽の方の娘時代の名前は「おらん」でした。
父親は青木三太郎利長といい、もとは下野の国(栃木県)鹿麻村の百姓。
江戸に出てきて旗本朝倉家に奉公するうち、武士に取り立てられました。
けれどお家のお金を使い込んでいたことが発覚、死罪は免れましたが江戸を追われてしまいます。
故郷の村に逃げ帰り今度は漁師となりますが、御法度であった「鶴の密漁」が知れてしまい、ついに本当に死罪となってしまいます。

その妻・子ども達も当時の刑罰にのっとって「奴」(奴隷)の身分に下げられ、筑後(福岡県)柳川城主の立花忠茂の夫人に無給で仕えることとなりました。
しかしその夫人が早世してしまい、おらんの母は150石取りの七沢作左右衛門という武士に嫁します。
この七沢という武士がやがて浪人となり、神田鎌倉河岸(現 内神田2丁目)で古着屋を始めます。
その義理の父の店先に座っていたおらんを、春日局が偶然に見つけたのでした。
春日局は浅草観音に参詣しての帰り道だったようです。おそらく世継ぎの誕生を祈願していたことでしょう。


おらんは寛永16年のある日、古河城主(茨城県)永井家の娘として大奥に上がります。
その年の暮れに女中たちが無礼講で騒いでいたとき、たまたま故郷の鹿麻村の麦うち歌を歌いながら踊っているおらんを家光が見て、一目惚れしたと言われています。これも春日局の作戦によるものだったのでしょう。
寛永18年8月、「お楽の方」と名前を変えたおらんは、周囲の期待に答え家光にとっての初めての男児を出産しました。20才の頃です。
子どもは家光の幼名と同じ竹千代と名付けられます。これがのちの4代将軍・家綱です。
正室は当初から大奥には住んでいなかったし、おらんの前の側室・お振の方も亡くなっていたので、おらんに対する大奥での陰湿ないじめなどはありませんでした。
何よりも春日局の目が光っていました。


子どもはおらんの元を離され、幼少時代は殆ど春日局から乳母である八島局の手によって育てられました。
せっかく生んだ我が子と引き離され、おらんは産後は病気がちになり将軍の寵愛も別の側室に移り、32才で亡くなり、上野寛永寺に葬られました。
奴隷から将軍の生母という、当時の女性の身分階級の底辺からてっぺんまでを生き抜いた、不思議なおらんの一生でした。


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