Oriental ABBAland

フリーダの夫ルッソ・ロイス公爵逝去

 フリーダの夫であるルッソ・ロイス公爵が1999年10月30日,逝去しました。このニュースを伝える11月3日付けAftonboladet紙の記事を,ストックホルム在住のReiko Fujita-Jespersenさんに日本語訳していただきましたので,以下にご紹介します。


 ルッソ・ロイス公爵はルンズべリ・インターナショナルスクールに通い、国王カール・グスタフの友人でもあった。アンニフリード(フリーダ)はノルウェー出身の“ドイツの落とし子”で、トゥシェッラ(エスキルスチューナ郊外の街)で祖母に育てられ、後にアバの一員として大スターになった。しかし癌が15年にも渡る二人の愛を引き裂いてしまった。

 ルッソ・ロイスはこの半年のあいだ病魔と戦ってきたが、土曜日(10月30日)の夜遂に力尽きてしまい、療養先のスコーネ(スウェーデン南部)にあるランスクローナ郊外のグルムレーヴのサマーハウスで亡くなった。49歳の若さだった。

 フリーダとルッソはこのサマーハウスに今年の春から住んでおり、ここで病気について告知された。

 二人は1984年スイスで知り合った。その頃のフリーダはベンニ・アンダションとの離婚で心身ともに疲れきっていた。2年後二人はルッソが所有するベルン郊外のフリーボリ城で一緒に生活を始めた。

 彼は建築家としての教育を受けてきたが、特に仕事をする必要性はなかった。

 ルッソの父エンシーオもまた裕福な公爵で、一族は1918年までドイツの東部地方に存在したロイス公国を統治していた。母親はペイロン生まれのスウェーデン人ルイースで、二人は数年間で結婚生活に終止符を打った。ルッソはローマで幼少年期を送ったが、夏の間は決まってスコーネのサマーハウスで母親と一緒に過ごした。彼はヴァルムランドにあるルンスベリ・インターナショナル・スクールに進学した。

 1970年ルッソの母親が亡くなると彼はこのランスクローナ郊外の屋敷を相続した。当然20代の若き公爵はこの屋敷をずっと所有することになった。ここで彼は友人に恵まれ、趣味のゴルフに興じるようになる。

 ルッソ・ロイスはスイスで3つの18ホールとルンスベリの9ホールを後援し、その他にも数か所のゴルフ場でプロジェクトに参加していた。

 ランスクローナの屋敷で彼は国王とも親交を深め、共に狩猟などを楽しんだ。1992年ルッソ・ロイスがアンニフリードと再婚した時、彼女はシルヴィア妃(現スウェーデン国王妃)と親友になり、最近では一緒に冬季休暇を過ごすようになった。

 アンニフリードは、再婚により公爵婦人と伯爵夫人の称号を同時に獲得したことになる。

 アンニフリード・プリンセッシン・ロイス・グレフィン・フォン・プラウセン。これが後ストックホルム地方裁判所に提出された彼女の称号である。さらにこの地裁で取り決められた二人の財産については、それぞれ所有していた財産を各々が所有することとなった。唯一、婚姻による共同財産と呼ばれるものは共同購入した住居のみである。

 これにより、アンニフリードはルッソ・ロイスが所有する城を相続する権利も生じたわけである。

 しかし、アンニフリードは経済的に何不自由することはない。経済危機が来る前にすでにポーラー・ミュージックの株を売り払い、現金もイギリスの銀行に移してあった。

 スウェーデンで最後に確定申告を行ったのは1983年、4200万クローナ(約5億4600万円)を所得していた。

(この先はアンニフリードのバイオグラフィーが続きますが、皆さんご存知でしょうから省略させていただきます。)

 ルッソ・ロイスは1973年に先妻との間に双子の娘をもうけた。昨年3月アンニフリードの娘ロッタ(リースロット)キャスパーが嫁ぎ先のアメリカで交通事故死している(享年30)。アンニフリードにまたもや突然襲ってきた親しい者の死去、彼女は涙に明け暮れている。

 “フリーダはルッソ・ロイスの双子の娘と親近者に囲まれて彼の死を悼んでいます。”彼女の親友で仕事仲間でもあるイョレル・ハンセルはこう語った。

 葬儀は11月11日ハーシュレーヴ教会でおこなわれ、その後エーレネース城で追悼集会が行われる。

Anders Johansson


translated: 1999-11-08
by Reiko Fujita-Jespersen

page designed: 1999-11-15
by MURAKAMI Chifumi